宿院 良蔵(しゅくいん りょうぞう、文政4年(1821年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、新選組隊士。名を良三、良造とも。 出身は京都、もしくは丹波亀山藩ともいわれる。新選組の入隊時期は不明だが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変には参加している。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。その頃、近藤勇の専横を憤った永倉新八は同志5人らと語らい、近藤批判の建白書を京都守護職に提出する。 同年9月、その責を負い、葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となってを訪れている。さらに同年12月の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねている。 慶応4年(1868年)1月3日から始まった戊辰戦争第一の役鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日に橋本の戦いで戦死(1月3日に戦死という説もある)。死亡時の年齢は47~8歳だったされるが真偽は不明。

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  • 宿院 良蔵(しゅくいん りょうぞう、文政4年(1821年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、新選組隊士。名を良三、良造とも。 出身は京都、もしくは丹波亀山藩ともいわれる。新選組の入隊時期は不明だが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変には参加している。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。その頃、近藤勇の専横を憤った永倉新八は同志5人らと語らい、近藤批判の建白書を京都守護職に提出する。 同年9月、その責を負い、葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となってを訪れている。さらに同年12月の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねている。 慶応4年(1868年)1月3日から始まった戊辰戦争第一の役鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日に橋本の戦いで戦死(1月3日に戦死という説もある)。死亡時の年齢は47~8歳だったされるが真偽は不明。 (ja)
  • 宿院 良蔵(しゅくいん りょうぞう、文政4年(1821年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、新選組隊士。名を良三、良造とも。 出身は京都、もしくは丹波亀山藩ともいわれる。新選組の入隊時期は不明だが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変には参加している。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。その頃、近藤勇の専横を憤った永倉新八は同志5人らと語らい、近藤批判の建白書を京都守護職に提出する。 同年9月、その責を負い、葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となってを訪れている。さらに同年12月の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねている。 慶応4年(1868年)1月3日から始まった戊辰戦争第一の役鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日に橋本の戦いで戦死(1月3日に戦死という説もある)。死亡時の年齢は47~8歳だったされるが真偽は不明。 (ja)
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  • 宿院 良蔵(しゅくいん りょうぞう、文政4年(1821年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、新選組隊士。名を良三、良造とも。 出身は京都、もしくは丹波亀山藩ともいわれる。新選組の入隊時期は不明だが、文久3年(1863年)の八月十八日の政変には参加している。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し屋外の守備を担当。褒賞金として金15両を得ている。その頃、近藤勇の専横を憤った永倉新八は同志5人らと語らい、近藤批判の建白書を京都守護職に提出する。 同年9月、その責を負い、葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎と共に、頼越人となってを訪れている。さらに同年12月の組織編成では、井上源三郎の三番組に属している。慶応3年(1867年)6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねている。 慶応4年(1868年)1月3日から始まった戊辰戦争第一の役鳥羽・伏見の戦いを経て、1月6日に橋本の戦いで戦死(1月3日に戦死という説もある)。死亡時の年齢は47~8歳だったされるが真偽は不明。 (ja)
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