孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - 没年不詳)は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。1940年10月、与謝野鉄幹・与謝野晶子の長女の(やつお、1907年3月生)と結婚。戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。没年は未詳。

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  • 孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - 没年不詳)は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。1940年10月、与謝野鉄幹・与謝野晶子の長女の(やつお、1907年3月生)と結婚。戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。没年は未詳。 (ja)
  • 孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - 没年不詳)は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。1940年10月、与謝野鉄幹・与謝野晶子の長女の(やつお、1907年3月生)と結婚。戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。没年は未詳。 (ja)
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  • 孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - 没年不詳)は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。1940年10月、与謝野鉄幹・与謝野晶子の長女の(やつお、1907年3月生)と結婚。戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。没年は未詳。 (ja)
  • 孝橋 謙二(こうはし けんじ、1908年(明治41年)3月17日 - 没年不詳)は俳人、文芸評論家。大阪市出身。 東京帝国大学文学部宗教学科2年中退。1940年10月、与謝野鉄幹・与謝野晶子の長女の(やつお、1907年3月生)と結婚。戦時中は日本交通公社に勤め、戦後は一時出版業に従事した。 俳誌「さつき」(黒岩漁郎)による。1938年より「現代俳句作家論」を書き俳句評論家として登場した。戦後、現代俳句協会の設立に参加。1948年「天狼」(山口誓子主宰)の創刊に参加。また「」(秋元不死男主宰)の創刊に参加。1957年「天狼」脱退。「萬緑」(中村草田男主宰)に同人参加。 1947年、桑原武夫の「第二芸術論」への反論(山口誓子・中村草田男・西東三鬼・日野草城・加藤楸邨等13名)を集めて『現代俳句の為に』(ふもと社)を編んだ。1952年の「内心のメカニズム」は論議を呼んだ。 1965年以降は俳壇から遠ざかった。没年は未詳。 (ja)
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