大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士(大高本家45代当主)の次男。兄に(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。

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  • 大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士(大高本家45代当主)の次男。兄に(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 (ja)
  • 大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士(大高本家45代当主)の次男。兄に(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 (ja)
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  • 大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士(大高本家45代当主)の次男。兄に(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 (ja)
  • 大高 忠晴(おおたか ただはる、寛永6年2月8日(1629年3月2日)‐延宝4年4月3日(1676年5月15日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家家臣。通称は兵左衛門。幼名は右馬助。赤穂四十七士の大高源五忠雄の父。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。 三春藩士(大高本家45代当主)の次男。兄に(大高本家46代当主)がいる。この秋田家は三春藩主の家名を頂いたものだが、もともとは大高家といった。大高家は平安時代の頃から安倍氏一族として安倍氏嫡流(安東氏・秋田氏)に仕え続けた連錦の家柄である。江戸時代には大高本家のみ主家と同じ「秋田」を名乗ることが許されていた。 忠晴は庶子であるので秋田ではなく大高を氏とし、赤穂浅野家(当時は笠間藩主浅野長直)に仕えるようになる。寛永16年(1639年)頃のことという。赤穂藩では200石を支給された。同じ浅野家中の小野寺又八の娘を妻に迎え、その間に寛文12年(1672年)に長男の大高忠雄、延宝4年(1676年)に次男の大高小次郎(のちの小野寺秀富)を儲けた。しかし小次郎が生まれた延宝4年のうちに死去している。 (ja)
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  • 大高忠晴 (ja)
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