大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年〔天保3年〕11月(旧暦) - 1913年〔大正2年〕4月11日(新暦))は、日本の国学者。言霊学者。近江国甲賀郡油日村生出身。 遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。 22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃のの教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。 明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋ののもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。

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  • 大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年〔天保3年〕11月(旧暦) - 1913年〔大正2年〕4月11日(新暦))は、日本の国学者。言霊学者。近江国甲賀郡油日村生出身。 遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。 22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃のの教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。 明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋ののもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。 (ja)
  • 大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年〔天保3年〕11月(旧暦) - 1913年〔大正2年〕4月11日(新暦))は、日本の国学者。言霊学者。近江国甲賀郡油日村生出身。 遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。 22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃のの教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。 明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋ののもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。 (ja)
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  • 大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年〔天保3年〕11月(旧暦) - 1913年〔大正2年〕4月11日(新暦))は、日本の国学者。言霊学者。近江国甲賀郡油日村生出身。 遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。 22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃のの教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。 明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋ののもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。 (ja)
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  • 大石凝真素美 (ja)
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