夏 燮(か しよう、Xia Xie、1800年 - 1875年8月30日)、字は謙甫、号は謝山居士または江上蹇叟。清の歴史学者。 安徽省当塗出身。1823年、挙人となり、青陽県学の訓導となった。1851年、直隷省臨城県学の訓導となった。同年に『中西紀事』の初稿が完成している。これは中国と西洋の通商の経緯と文化の衝突を述べたものである。夏燮は植民地主義による侵略に反対し、イギリス領事との談判の際には外国人から尊敬を得たという。 夏燮は『明史』に不満を持ち、司馬光の『資治通鑑』に倣って編年体の『明通鑑』100巻を著した。晩年は経書の研究に力を注ぎ、『儀礼』に造詣が深かった。また琴が得意であった。

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  • 夏 燮(か しよう、Xia Xie、1800年 - 1875年8月30日)、字は謙甫、号は謝山居士または江上蹇叟。清の歴史学者。 安徽省当塗出身。1823年、挙人となり、青陽県学の訓導となった。1851年、直隷省臨城県学の訓導となった。同年に『中西紀事』の初稿が完成している。これは中国と西洋の通商の経緯と文化の衝突を述べたものである。夏燮は植民地主義による侵略に反対し、イギリス領事との談判の際には外国人から尊敬を得たという。 夏燮は『明史』に不満を持ち、司馬光の『資治通鑑』に倣って編年体の『明通鑑』100巻を著した。晩年は経書の研究に力を注ぎ、『儀礼』に造詣が深かった。また琴が得意であった。 (ja)
  • 夏 燮(か しよう、Xia Xie、1800年 - 1875年8月30日)、字は謙甫、号は謝山居士または江上蹇叟。清の歴史学者。 安徽省当塗出身。1823年、挙人となり、青陽県学の訓導となった。1851年、直隷省臨城県学の訓導となった。同年に『中西紀事』の初稿が完成している。これは中国と西洋の通商の経緯と文化の衝突を述べたものである。夏燮は植民地主義による侵略に反対し、イギリス領事との談判の際には外国人から尊敬を得たという。 夏燮は『明史』に不満を持ち、司馬光の『資治通鑑』に倣って編年体の『明通鑑』100巻を著した。晩年は経書の研究に力を注ぎ、『儀礼』に造詣が深かった。また琴が得意であった。 (ja)
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  • 夏 燮(か しよう、Xia Xie、1800年 - 1875年8月30日)、字は謙甫、号は謝山居士または江上蹇叟。清の歴史学者。 安徽省当塗出身。1823年、挙人となり、青陽県学の訓導となった。1851年、直隷省臨城県学の訓導となった。同年に『中西紀事』の初稿が完成している。これは中国と西洋の通商の経緯と文化の衝突を述べたものである。夏燮は植民地主義による侵略に反対し、イギリス領事との談判の際には外国人から尊敬を得たという。 夏燮は『明史』に不満を持ち、司馬光の『資治通鑑』に倣って編年体の『明通鑑』100巻を著した。晩年は経書の研究に力を注ぎ、『儀礼』に造詣が深かった。また琴が得意であった。 (ja)
  • 夏 燮(か しよう、Xia Xie、1800年 - 1875年8月30日)、字は謙甫、号は謝山居士または江上蹇叟。清の歴史学者。 安徽省当塗出身。1823年、挙人となり、青陽県学の訓導となった。1851年、直隷省臨城県学の訓導となった。同年に『中西紀事』の初稿が完成している。これは中国と西洋の通商の経緯と文化の衝突を述べたものである。夏燮は植民地主義による侵略に反対し、イギリス領事との談判の際には外国人から尊敬を得たという。 夏燮は『明史』に不満を持ち、司馬光の『資治通鑑』に倣って編年体の『明通鑑』100巻を著した。晩年は経書の研究に力を注ぎ、『儀礼』に造詣が深かった。また琴が得意であった。 (ja)
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  • 夏燮 (ja)
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