土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐家の一族。 の三男で、の養子であるの三男。母はの娘。正室はの娘。子に、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)にの末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1千4百石を加増された。1827年に2千石、1836年に3千石を加増されて、最終的に家禄は6百石から7千石となった。家斉父子が朝旨を重用したことが窺い知れる。 天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。

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  • 土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐家の一族。 の三男で、の養子であるの三男。母はの娘。正室はの娘。子に、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)にの末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1千4百石を加増された。1827年に2千石、1836年に3千石を加増されて、最終的に家禄は6百石から7千石となった。家斉父子が朝旨を重用したことが窺い知れる。 天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。 (ja)
  • 土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐家の一族。 の三男で、の養子であるの三男。母はの娘。正室はの娘。子に、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)にの末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1千4百石を加増された。1827年に2千石、1836年に3千石を加増されて、最終的に家禄は6百石から7千石となった。家斉父子が朝旨を重用したことが窺い知れる。 天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。 (ja)
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  • 土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐家の一族。 の三男で、の養子であるの三男。母はの娘。正室はの娘。子に、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)にの末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1千4百石を加増された。1827年に2千石、1836年に3千石を加増されて、最終的に家禄は6百石から7千石となった。家斉父子が朝旨を重用したことが窺い知れる。 天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。 (ja)
  • 土岐 朝旨(とき ともむね、安永2年(1773年) - 天保9年6月21日(1838年8月10日))は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下肥前守、豊前守。通称は金三郎。字(あざな)は承之。号は愚叟(ぐそう)。江戸崎土岐家の一族。 の三男で、の養子であるの三男。母はの娘。正室はの娘。子に、頼旨、娘(松平信敏室・松平信璋母)、娘(遠山景纂室)などがいる。 天明5年(1785年)にの末期養子となり、翌天明6年(1786年)3月6日に遺跡を継承する。寛政6年(1794年)8月26日に小納戸へ入り、9月10日に小姓となり、寛政9年(1797年)2月27日に西丸小姓となり11代将軍徳川家斉の世子徳川家慶に仕えた。 享和2年(1802年)4月に西丸小姓頭取、文化11年(1814年)12月1日に小姓組番頭格、御側御用取次見習となり、文化14年(1817年)6月1日に御側御用取次となり1千4百石を加増された。1827年に2千石、1836年に3千石を加増されて、最終的に家禄は6百石から7千石となった。家斉父子が朝旨を重用したことが窺い知れる。 天保8年(1837年)4月2日に大御所となった家斉の御用も務め、翌天保9年(1838年)6月21日に死去。享年66。家督は子の朝昌が相続した。  著作に『善事須修(ぜんじしゅしゅう)』・『武家必用童形用心大略』・『幼童教諭本具三郎宝』など。 (ja)
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