内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地を改めて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死去した。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。

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  • 内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地を改めて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死去した。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。 (ja)
  • 内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地を改めて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死去した。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。 (ja)
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  • 内藤 信有(ないとう のぶすみ)は、江戸時代中期の旗本。陸奥国内藤家棚倉藩の分家当主・内藤信全の養子。 寛文13年(1673年)7月11日に遺領を継ぎ、同年徳川家綱に御目見した。同5年定火消となり、また布衣の着用を許された。貞享2年(1685年)小姓組番頭となる。同3年従五位下筑後守に叙任されたが、元禄1年(1688年)10月26日、配下の不祥事の責を問われて謹慎となり、のち許されて小普請に入れられた。 元禄11年(1698年)3月7日、常陸国の采地を改めて、駿河国富士郡および駿東郡の内に移された。 享保17年2月29日、江戸において死去した。享年86。法名は直岸。葬地は三田浄閑寺とされている(「寛政譜」)。 (ja)
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