倭岩 英太郎(やまといわ えいたろう、1910年7月6日 - 1982年12月2日)は、1930年代から40年代にかけての大相撲力士である。身長176cm、体重120kg。 福岡県福岡市出身、本名は中村英太郎という。1926年1月場所、出羽海部屋から初土俵、1932年1月に十両昇進をはたした。ところが、場所前に勃発した春秋園事件のために協会を脱退、関西角力協会に所属する。関西協会では関脇まで昇進し、1937年の解散まで土俵をつとめた。解散後、再び出羽海部屋に戻り、1938年1月場所に幕下格で復帰、5月には再十両、1939年5月場所には新入幕をはたした。だがその場所高登との対戦で右ひざを負傷し途中休場、それが尾をひき、結局最高位は新入幕の場所の東前頭13枚目、幕内在位も6場所に終わり、1944年1月場所限りで廃業した。 * 幕内成績 33勝45敗12休

Property Value
dbo:abstract
  • 倭岩 英太郎(やまといわ えいたろう、1910年7月6日 - 1982年12月2日)は、1930年代から40年代にかけての大相撲力士である。身長176cm、体重120kg。 福岡県福岡市出身、本名は中村英太郎という。1926年1月場所、出羽海部屋から初土俵、1932年1月に十両昇進をはたした。ところが、場所前に勃発した春秋園事件のために協会を脱退、関西角力協会に所属する。関西協会では関脇まで昇進し、1937年の解散まで土俵をつとめた。解散後、再び出羽海部屋に戻り、1938年1月場所に幕下格で復帰、5月には再十両、1939年5月場所には新入幕をはたした。だがその場所高登との対戦で右ひざを負傷し途中休場、それが尾をひき、結局最高位は新入幕の場所の東前頭13枚目、幕内在位も6場所に終わり、1944年1月場所限りで廃業した。 * 幕内成績 33勝45敗12休 (ja)
  • 倭岩 英太郎(やまといわ えいたろう、1910年7月6日 - 1982年12月2日)は、1930年代から40年代にかけての大相撲力士である。身長176cm、体重120kg。 福岡県福岡市出身、本名は中村英太郎という。1926年1月場所、出羽海部屋から初土俵、1932年1月に十両昇進をはたした。ところが、場所前に勃発した春秋園事件のために協会を脱退、関西角力協会に所属する。関西協会では関脇まで昇進し、1937年の解散まで土俵をつとめた。解散後、再び出羽海部屋に戻り、1938年1月場所に幕下格で復帰、5月には再十両、1939年5月場所には新入幕をはたした。だがその場所高登との対戦で右ひざを負傷し途中休場、それが尾をひき、結局最高位は新入幕の場所の東前頭13枚目、幕内在位も6場所に終わり、1944年1月場所限りで廃業した。 * 幕内成績 33勝45敗12休 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 2537731 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 3036 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 81277481 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:loss
  • 10 (xsd:integer)
prop-ja:rNo
  • 7 (xsd:integer)
prop-ja:rank
  • j (ja)
  • j (ja)
prop-ja:tozai
  • e (ja)
  • e (ja)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:win
  • 5 (xsd:integer)
dct:subject
rdfs:comment
  • 倭岩 英太郎(やまといわ えいたろう、1910年7月6日 - 1982年12月2日)は、1930年代から40年代にかけての大相撲力士である。身長176cm、体重120kg。 福岡県福岡市出身、本名は中村英太郎という。1926年1月場所、出羽海部屋から初土俵、1932年1月に十両昇進をはたした。ところが、場所前に勃発した春秋園事件のために協会を脱退、関西角力協会に所属する。関西協会では関脇まで昇進し、1937年の解散まで土俵をつとめた。解散後、再び出羽海部屋に戻り、1938年1月場所に幕下格で復帰、5月には再十両、1939年5月場所には新入幕をはたした。だがその場所高登との対戦で右ひざを負傷し途中休場、それが尾をひき、結局最高位は新入幕の場所の東前頭13枚目、幕内在位も6場所に終わり、1944年1月場所限りで廃業した。 * 幕内成績 33勝45敗12休 (ja)
  • 倭岩 英太郎(やまといわ えいたろう、1910年7月6日 - 1982年12月2日)は、1930年代から40年代にかけての大相撲力士である。身長176cm、体重120kg。 福岡県福岡市出身、本名は中村英太郎という。1926年1月場所、出羽海部屋から初土俵、1932年1月に十両昇進をはたした。ところが、場所前に勃発した春秋園事件のために協会を脱退、関西角力協会に所属する。関西協会では関脇まで昇進し、1937年の解散まで土俵をつとめた。解散後、再び出羽海部屋に戻り、1938年1月場所に幕下格で復帰、5月には再十両、1939年5月場所には新入幕をはたした。だがその場所高登との対戦で右ひざを負傷し途中休場、それが尾をひき、結局最高位は新入幕の場所の東前頭13枚目、幕内在位も6場所に終わり、1944年1月場所限りで廃業した。 * 幕内成績 33勝45敗12休 (ja)
rdfs:label
  • 倭岩英太郎 (ja)
  • 倭岩英太郎 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of