三村 元範(みむら もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三村氏の家臣。備中国主。 天文18年(1549年)、三村家親の三男として生まれる。父の死後は、家臣として兄であり当主・元親の補佐にあたった。元親が織田信長と手を結んで毛利輝元から離反すると(備中兵乱)、三村方として杠城(ゆずりはじょう、楪城とも書く)に篭城するも毛利氏の小早川隆景に攻められ、衆寡敵せず玉砕した。元範は長刀の達人であり、最期の戦いでも奮戦したといわれる。享年27。 杠城の落城は「備中兵乱記」では天正3年(1575年)1月8日となっているが、「萩藩閥閲録」には天正2年(1574年)11月6日付けで輝元が楢崎豊景に宛てた感状が収録されており、それには「杠城落去」と書かれているので、杠城の落城は備中兵乱記より早かったものと考えられる。 新見市高尾には元範を顕彰する「三村元範討死の碑」がある。

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  • 三村 元範(みむら もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三村氏の家臣。備中国主。 天文18年(1549年)、三村家親の三男として生まれる。父の死後は、家臣として兄であり当主・元親の補佐にあたった。元親が織田信長と手を結んで毛利輝元から離反すると(備中兵乱)、三村方として杠城(ゆずりはじょう、楪城とも書く)に篭城するも毛利氏の小早川隆景に攻められ、衆寡敵せず玉砕した。元範は長刀の達人であり、最期の戦いでも奮戦したといわれる。享年27。 杠城の落城は「備中兵乱記」では天正3年(1575年)1月8日となっているが、「萩藩閥閲録」には天正2年(1574年)11月6日付けで輝元が楢崎豊景に宛てた感状が収録されており、それには「杠城落去」と書かれているので、杠城の落城は備中兵乱記より早かったものと考えられる。 新見市高尾には元範を顕彰する「三村元範討死の碑」がある。 (ja)
  • 三村 元範(みむら もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三村氏の家臣。備中国主。 天文18年(1549年)、三村家親の三男として生まれる。父の死後は、家臣として兄であり当主・元親の補佐にあたった。元親が織田信長と手を結んで毛利輝元から離反すると(備中兵乱)、三村方として杠城(ゆずりはじょう、楪城とも書く)に篭城するも毛利氏の小早川隆景に攻められ、衆寡敵せず玉砕した。元範は長刀の達人であり、最期の戦いでも奮戦したといわれる。享年27。 杠城の落城は「備中兵乱記」では天正3年(1575年)1月8日となっているが、「萩藩閥閲録」には天正2年(1574年)11月6日付けで輝元が楢崎豊景に宛てた感状が収録されており、それには「杠城落去」と書かれているので、杠城の落城は備中兵乱記より早かったものと考えられる。 新見市高尾には元範を顕彰する「三村元範討死の碑」がある。 (ja)
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  • 三村 元範(みむら もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三村氏の家臣。備中国主。 天文18年(1549年)、三村家親の三男として生まれる。父の死後は、家臣として兄であり当主・元親の補佐にあたった。元親が織田信長と手を結んで毛利輝元から離反すると(備中兵乱)、三村方として杠城(ゆずりはじょう、楪城とも書く)に篭城するも毛利氏の小早川隆景に攻められ、衆寡敵せず玉砕した。元範は長刀の達人であり、最期の戦いでも奮戦したといわれる。享年27。 杠城の落城は「備中兵乱記」では天正3年(1575年)1月8日となっているが、「萩藩閥閲録」には天正2年(1574年)11月6日付けで輝元が楢崎豊景に宛てた感状が収録されており、それには「杠城落去」と書かれているので、杠城の落城は備中兵乱記より早かったものと考えられる。 新見市高尾には元範を顕彰する「三村元範討死の碑」がある。 (ja)
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