ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(Michel Dimitri Calvocoressi, 1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家。 パリで音楽を学ぶが、ほとんど独学であった。その間、社会科学も修めた。 ロシアの興行家セルゲイ・ディアギレフの助手として、1907年にパリで行われた、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、スクリャービン、ニキシュらを招いてのロシア音楽コンサートに関わった。1909年にディアギレフが結成したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)にも協力したが、1910年の公演(ストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演された)、ディアギレフとの不和が原因で助手を辞任した。。 1914年にロンドンに移り、フランス語雑誌に音楽評論を寄稿。ロシア語に通暁しており、ロシア音楽の熱烈な擁護者であった。ロシア語の歌曲やドイツ・リート、ギリシャ民謡を英語やフランス語に翻訳するのに、語学力を発揮した。音楽サークル「アパッシュ」の一員として、ラヴェルやフローラン・シュミット、ファリャに影響力があり、また、1907年冬には作曲とオーケストレーションの指導を求めていたヴォーン・ウィリアムズにラヴェルを紹介した。 日本でも著作の翻訳が刊行されている。

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  • ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(Michel Dimitri Calvocoressi, 1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家。 パリで音楽を学ぶが、ほとんど独学であった。その間、社会科学も修めた。 ロシアの興行家セルゲイ・ディアギレフの助手として、1907年にパリで行われた、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、スクリャービン、ニキシュらを招いてのロシア音楽コンサートに関わった。1909年にディアギレフが結成したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)にも協力したが、1910年の公演(ストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演された)、ディアギレフとの不和が原因で助手を辞任した。。 1914年にロンドンに移り、フランス語雑誌に音楽評論を寄稿。ロシア語に通暁しており、ロシア音楽の熱烈な擁護者であった。ロシア語の歌曲やドイツ・リート、ギリシャ民謡を英語やフランス語に翻訳するのに、語学力を発揮した。音楽サークル「アパッシュ」の一員として、ラヴェルやフローラン・シュミット、ファリャに影響力があり、また、1907年冬には作曲とオーケストレーションの指導を求めていたヴォーン・ウィリアムズにラヴェルを紹介した。 日本でも著作の翻訳が刊行されている。 * 『近代音楽回想録』大田黒元雄訳 第一書房 1938 * 『音楽教養論』柿沼太郎訳 古賀書店 1942 * 『音樂の正しい味はひ方』柿沼太郎訳 新興音樂出版社 1946 (ja)
  • ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(Michel Dimitri Calvocoressi, 1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家。 パリで音楽を学ぶが、ほとんど独学であった。その間、社会科学も修めた。 ロシアの興行家セルゲイ・ディアギレフの助手として、1907年にパリで行われた、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、スクリャービン、ニキシュらを招いてのロシア音楽コンサートに関わった。1909年にディアギレフが結成したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)にも協力したが、1910年の公演(ストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演された)、ディアギレフとの不和が原因で助手を辞任した。。 1914年にロンドンに移り、フランス語雑誌に音楽評論を寄稿。ロシア語に通暁しており、ロシア音楽の熱烈な擁護者であった。ロシア語の歌曲やドイツ・リート、ギリシャ民謡を英語やフランス語に翻訳するのに、語学力を発揮した。音楽サークル「アパッシュ」の一員として、ラヴェルやフローラン・シュミット、ファリャに影響力があり、また、1907年冬には作曲とオーケストレーションの指導を求めていたヴォーン・ウィリアムズにラヴェルを紹介した。 日本でも著作の翻訳が刊行されている。 * 『近代音楽回想録』大田黒元雄訳 第一書房 1938 * 『音楽教養論』柿沼太郎訳 古賀書店 1942 * 『音樂の正しい味はひ方』柿沼太郎訳 新興音樂出版社 1946 (ja)
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  • ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(Michel Dimitri Calvocoressi, 1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家。 パリで音楽を学ぶが、ほとんど独学であった。その間、社会科学も修めた。 ロシアの興行家セルゲイ・ディアギレフの助手として、1907年にパリで行われた、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、スクリャービン、ニキシュらを招いてのロシア音楽コンサートに関わった。1909年にディアギレフが結成したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)にも協力したが、1910年の公演(ストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演された)、ディアギレフとの不和が原因で助手を辞任した。。 1914年にロンドンに移り、フランス語雑誌に音楽評論を寄稿。ロシア語に通暁しており、ロシア音楽の熱烈な擁護者であった。ロシア語の歌曲やドイツ・リート、ギリシャ民謡を英語やフランス語に翻訳するのに、語学力を発揮した。音楽サークル「アパッシュ」の一員として、ラヴェルやフローラン・シュミット、ファリャに影響力があり、また、1907年冬には作曲とオーケストレーションの指導を求めていたヴォーン・ウィリアムズにラヴェルを紹介した。 日本でも著作の翻訳が刊行されている。 (ja)
  • ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ(Michel Dimitri Calvocoressi, 1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家。 パリで音楽を学ぶが、ほとんど独学であった。その間、社会科学も修めた。 ロシアの興行家セルゲイ・ディアギレフの助手として、1907年にパリで行われた、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、スクリャービン、ニキシュらを招いてのロシア音楽コンサートに関わった。1909年にディアギレフが結成したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)にも協力したが、1910年の公演(ストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演された)、ディアギレフとの不和が原因で助手を辞任した。。 1914年にロンドンに移り、フランス語雑誌に音楽評論を寄稿。ロシア語に通暁しており、ロシア音楽の熱烈な擁護者であった。ロシア語の歌曲やドイツ・リート、ギリシャ民謡を英語やフランス語に翻訳するのに、語学力を発揮した。音楽サークル「アパッシュ」の一員として、ラヴェルやフローラン・シュミット、ファリャに影響力があり、また、1907年冬には作曲とオーケストレーションの指導を求めていたヴォーン・ウィリアムズにラヴェルを紹介した。 日本でも著作の翻訳が刊行されている。 (ja)
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