シャテルロー公爵(Duc de Châtellerault)は、フランスの貴族に授けられた公爵位の1つ。シャテルロー(現在のポワトゥー=シャラント地域圏ヴィエンヌ県の都市)に由来する。歴史的経緯から、何度かスコットランドの貴族に授けられたことがある。 この爵位は1515年、モンパンシエ伯ジルベールの三男フランソワ・ド・ブルボン=モンパンシエ(1492年 - 1515年)に同輩公(Pairie de France)の公爵位として授けられたことで初めて創設された。しかしフランソワはその年のうちに亡くなり、爵位はその次兄のシャルルが継承した。シャルルはシュザンヌ・ド・ブルボンとの結婚を通じてブルボン公爵およびを兼ね、フランス軍総司令官(Connétable de France)の称号も有したが、主君であるフランソワ1世王を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結んだため、1527年にシャテルロー公爵位を含む全ての称号を剥奪された。 シャテルロー公爵位はブルボン公爵位とともにフランソワ1世王の母ルイーズ・ド・サヴォワに授けられたが、1530年にはブルボン公爵領に付属する所領はブルボン家傍系のラ・ロッシュ=シュル=ヨン公ルイ3世(後にモンパンシエ公爵)に譲渡された。しかし同年、ブルボン公爵位のみが再び王母ルイーズに授けられ、彼女は1532年に死ぬまで2つの公爵位を保った。

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  • シャテルロー公爵(Duc de Châtellerault)は、フランスの貴族に授けられた公爵位の1つ。シャテルロー(現在のポワトゥー=シャラント地域圏ヴィエンヌ県の都市)に由来する。歴史的経緯から、何度かスコットランドの貴族に授けられたことがある。 この爵位は1515年、モンパンシエ伯ジルベールの三男フランソワ・ド・ブルボン=モンパンシエ(1492年 - 1515年)に同輩公(Pairie de France)の公爵位として授けられたことで初めて創設された。しかしフランソワはその年のうちに亡くなり、爵位はその次兄のシャルルが継承した。シャルルはシュザンヌ・ド・ブルボンとの結婚を通じてブルボン公爵およびを兼ね、フランス軍総司令官(Connétable de France)の称号も有したが、主君であるフランソワ1世王を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結んだため、1527年にシャテルロー公爵位を含む全ての称号を剥奪された。 シャテルロー公爵位はブルボン公爵位とともにフランソワ1世王の母ルイーズ・ド・サヴォワに授けられたが、1530年にはブルボン公爵領に付属する所領はブルボン家傍系のラ・ロッシュ=シュル=ヨン公ルイ3世(後にモンパンシエ公爵)に譲渡された。しかし同年、ブルボン公爵位のみが再び王母ルイーズに授けられ、彼女は1532年に死ぬまで2つの公爵位を保った。 フランソワ1世は1540年に三男のシャルルにオルレアン公爵位、位とともにシャテルロー公爵を授けたが、シャルル王子は1545年に早世したため、シャテルロー公爵位は廃された。 1548年、アンリ2世王は同年に結ばれたシャティヨン条約に基づき、ドーファン(後のフランソワ2世王)とスコットランド女王メアリー(マリー・デコス)との婚約を実現させたスコットランド摂政の第2代アラン伯爵にシャテルロー公爵位を授けた。しかしアラン伯は1559年にフランス王妃となっていたメアリー女王と敵対したため、シャテルロー公爵位を剥奪された。 アンリ2世は1563年、愛妾フィリッパ・ドゥーチとの間にもうけた庶出の娘ディアーヌ・ド・フランスにシャテルロー公爵位を与えたが、ディアーヌは1582年にシャテルロー公爵位を放棄し、代わりに異母弟のアンリ3世王よりアングレーム公爵位を受けた。 翌1583年、シャテルロー公爵位はモンパンシエ公フランソワ(前述のモンパンシエ公ルイ3世の息子)に与えられた。この爵位継承はフランソワの曾孫にあたる「ラ・グランド・マドモワゼル(La Grande Madomiselle)」ことアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンが1693年に死去すると同時に廃された。シャテルローの所領のみはルイ14世王の弟であるオルレアン公フィリップ1世が相続した。 1720年代、オルレアン公爵家はシャテルローの所領をタルモン公フレデリック・ギヨーム・ド・ラ・トレモイユ(Frédéric Guillaume de la Trémouille, Prince de Talmont)に売却した。その息子のアンヌ・シャルル・フレデリック(Anne Charles Frédéric de La Trémouille, Prince de Talmont)は1730年にシャテルロー公爵に叙せられた。アンヌは1759年に子供の無いまま死去し、公爵位も廃された。シャテルローの所領のみはラ・トレモイユ家の遠縁の親族に相続された。 第二帝政期の1864年、皇帝ナポレオン3世は1548年のに対するシャテルロー公爵の叙爵を復活させることを決めた。公爵位の相続者は、1548年の国王勅許状に明記された相続順に従えば第14代ダービー伯爵であり、また第2代アラン伯爵の男系直系の嫡流であれば初代アバコーン公爵であった。しかしナポレオン3世がシャテルロー公爵に叙したのはこの両者のいずれでもなく、第2代アラン伯の女系子孫の1人である第12代ハミルトン公爵だった。これはハミルトン公爵の母方の祖母であるバーデン大公妃ステファニー・ド・ボアルネがナポレオン3世の遠縁にあたることが重視された叙爵であった。第12代ハミルトン公爵は1895年に男子の無いまま死去し、ハミルトン公爵家にナポレオン3世と縁戚関係のある男子はいなくなった。 その後、ハミルトン公爵家の当主とアバコーン公爵家の当主の双方がフランスにおける爵位としてシャテルロー公爵を自称したものの、これらの爵位請求に法的な正当性は認められなかった。 (ja)
  • シャテルロー公爵(Duc de Châtellerault)は、フランスの貴族に授けられた公爵位の1つ。シャテルロー(現在のポワトゥー=シャラント地域圏ヴィエンヌ県の都市)に由来する。歴史的経緯から、何度かスコットランドの貴族に授けられたことがある。 この爵位は1515年、モンパンシエ伯ジルベールの三男フランソワ・ド・ブルボン=モンパンシエ(1492年 - 1515年)に同輩公(Pairie de France)の公爵位として授けられたことで初めて創設された。しかしフランソワはその年のうちに亡くなり、爵位はその次兄のシャルルが継承した。シャルルはシュザンヌ・ド・ブルボンとの結婚を通じてブルボン公爵およびを兼ね、フランス軍総司令官(Connétable de France)の称号も有したが、主君であるフランソワ1世王を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結んだため、1527年にシャテルロー公爵位を含む全ての称号を剥奪された。 シャテルロー公爵位はブルボン公爵位とともにフランソワ1世王の母ルイーズ・ド・サヴォワに授けられたが、1530年にはブルボン公爵領に付属する所領はブルボン家傍系のラ・ロッシュ=シュル=ヨン公ルイ3世(後にモンパンシエ公爵)に譲渡された。しかし同年、ブルボン公爵位のみが再び王母ルイーズに授けられ、彼女は1532年に死ぬまで2つの公爵位を保った。 フランソワ1世は1540年に三男のシャルルにオルレアン公爵位、位とともにシャテルロー公爵を授けたが、シャルル王子は1545年に早世したため、シャテルロー公爵位は廃された。 1548年、アンリ2世王は同年に結ばれたシャティヨン条約に基づき、ドーファン(後のフランソワ2世王)とスコットランド女王メアリー(マリー・デコス)との婚約を実現させたスコットランド摂政の第2代アラン伯爵にシャテルロー公爵位を授けた。しかしアラン伯は1559年にフランス王妃となっていたメアリー女王と敵対したため、シャテルロー公爵位を剥奪された。 アンリ2世は1563年、愛妾フィリッパ・ドゥーチとの間にもうけた庶出の娘ディアーヌ・ド・フランスにシャテルロー公爵位を与えたが、ディアーヌは1582年にシャテルロー公爵位を放棄し、代わりに異母弟のアンリ3世王よりアングレーム公爵位を受けた。 翌1583年、シャテルロー公爵位はモンパンシエ公フランソワ(前述のモンパンシエ公ルイ3世の息子)に与えられた。この爵位継承はフランソワの曾孫にあたる「ラ・グランド・マドモワゼル(La Grande Madomiselle)」ことアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンが1693年に死去すると同時に廃された。シャテルローの所領のみはルイ14世王の弟であるオルレアン公フィリップ1世が相続した。 1720年代、オルレアン公爵家はシャテルローの所領をタルモン公フレデリック・ギヨーム・ド・ラ・トレモイユ(Frédéric Guillaume de la Trémouille, Prince de Talmont)に売却した。その息子のアンヌ・シャルル・フレデリック(Anne Charles Frédéric de La Trémouille, Prince de Talmont)は1730年にシャテルロー公爵に叙せられた。アンヌは1759年に子供の無いまま死去し、公爵位も廃された。シャテルローの所領のみはラ・トレモイユ家の遠縁の親族に相続された。 第二帝政期の1864年、皇帝ナポレオン3世は1548年のに対するシャテルロー公爵の叙爵を復活させることを決めた。公爵位の相続者は、1548年の国王勅許状に明記された相続順に従えば第14代ダービー伯爵であり、また第2代アラン伯爵の男系直系の嫡流であれば初代アバコーン公爵であった。しかしナポレオン3世がシャテルロー公爵に叙したのはこの両者のいずれでもなく、第2代アラン伯の女系子孫の1人である第12代ハミルトン公爵だった。これはハミルトン公爵の母方の祖母であるバーデン大公妃ステファニー・ド・ボアルネがナポレオン3世の遠縁にあたることが重視された叙爵であった。第12代ハミルトン公爵は1895年に男子の無いまま死去し、ハミルトン公爵家にナポレオン3世と縁戚関係のある男子はいなくなった。 その後、ハミルトン公爵家の当主とアバコーン公爵家の当主の双方がフランスにおける爵位としてシャテルロー公爵を自称したものの、これらの爵位請求に法的な正当性は認められなかった。 (ja)
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  • シャテルロー公爵(Duc de Châtellerault)は、フランスの貴族に授けられた公爵位の1つ。シャテルロー(現在のポワトゥー=シャラント地域圏ヴィエンヌ県の都市)に由来する。歴史的経緯から、何度かスコットランドの貴族に授けられたことがある。 この爵位は1515年、モンパンシエ伯ジルベールの三男フランソワ・ド・ブルボン=モンパンシエ(1492年 - 1515年)に同輩公(Pairie de France)の公爵位として授けられたことで初めて創設された。しかしフランソワはその年のうちに亡くなり、爵位はその次兄のシャルルが継承した。シャルルはシュザンヌ・ド・ブルボンとの結婚を通じてブルボン公爵およびを兼ね、フランス軍総司令官(Connétable de France)の称号も有したが、主君であるフランソワ1世王を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結んだため、1527年にシャテルロー公爵位を含む全ての称号を剥奪された。 シャテルロー公爵位はブルボン公爵位とともにフランソワ1世王の母ルイーズ・ド・サヴォワに授けられたが、1530年にはブルボン公爵領に付属する所領はブルボン家傍系のラ・ロッシュ=シュル=ヨン公ルイ3世(後にモンパンシエ公爵)に譲渡された。しかし同年、ブルボン公爵位のみが再び王母ルイーズに授けられ、彼女は1532年に死ぬまで2つの公爵位を保った。 (ja)
  • シャテルロー公爵(Duc de Châtellerault)は、フランスの貴族に授けられた公爵位の1つ。シャテルロー(現在のポワトゥー=シャラント地域圏ヴィエンヌ県の都市)に由来する。歴史的経緯から、何度かスコットランドの貴族に授けられたことがある。 この爵位は1515年、モンパンシエ伯ジルベールの三男フランソワ・ド・ブルボン=モンパンシエ(1492年 - 1515年)に同輩公(Pairie de France)の公爵位として授けられたことで初めて創設された。しかしフランソワはその年のうちに亡くなり、爵位はその次兄のシャルルが継承した。シャルルはシュザンヌ・ド・ブルボンとの結婚を通じてブルボン公爵およびを兼ね、フランス軍総司令官(Connétable de France)の称号も有したが、主君であるフランソワ1世王を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世と同盟を結んだため、1527年にシャテルロー公爵位を含む全ての称号を剥奪された。 シャテルロー公爵位はブルボン公爵位とともにフランソワ1世王の母ルイーズ・ド・サヴォワに授けられたが、1530年にはブルボン公爵領に付属する所領はブルボン家傍系のラ・ロッシュ=シュル=ヨン公ルイ3世(後にモンパンシエ公爵)に譲渡された。しかし同年、ブルボン公爵位のみが再び王母ルイーズに授けられ、彼女は1532年に死ぬまで2つの公爵位を保った。 (ja)
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  • シャテルロー公爵 (ja)
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