「コザラから来た少女」または「コザルチャンカ」(Kozarčanka (セルビア・クロアチア語: Козарчанка)は、第二次世界大戦中にユーゴスラヴィアの芸術写真家(Žorž Skrigin)により撮影された一葉の写真である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国を象徴する一枚、同国の「イコン」となった。1943年から1944年にかけての冬に、ボスニア北部で撮影された。ティトーの名にちなむという帽子をかぶり、サブマシンガンの負い革を肩にかけた、笑顔のパルチザンの少女が写っている。 被写体となった少女は、ミリヤ・マリン(Milja Marin, 1926年 - 2007年、撮影当時の姓はトロマン Toroman)。ボスニアに住んでいたセルビア系住民で、のふもとにある村から来た。戦後はパルチザンの戦友と結婚しプリイェドルの町で暮らした。戦後、写真「コザラから来た少女」は、学校教科書で繰り返し取り上げられたほか、戦時中の出来事を検証する論文やプロパガンダポスターなどでも言及された。その一方で、社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおいては、写真の被写体であったミリヤの人となりが広く知られることはなかった。

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  • 「コザラから来た少女」または「コザルチャンカ」(Kozarčanka (セルビア・クロアチア語: Козарчанка)は、第二次世界大戦中にユーゴスラヴィアの芸術写真家(Žorž Skrigin)により撮影された一葉の写真である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国を象徴する一枚、同国の「イコン」となった。1943年から1944年にかけての冬に、ボスニア北部で撮影された。ティトーの名にちなむという帽子をかぶり、サブマシンガンの負い革を肩にかけた、笑顔のパルチザンの少女が写っている。 被写体となった少女は、ミリヤ・マリン(Milja Marin, 1926年 - 2007年、撮影当時の姓はトロマン Toroman)。ボスニアに住んでいたセルビア系住民で、のふもとにある村から来た。戦後はパルチザンの戦友と結婚しプリイェドルの町で暮らした。戦後、写真「コザラから来た少女」は、学校教科書で繰り返し取り上げられたほか、戦時中の出来事を検証する論文やプロパガンダポスターなどでも言及された。その一方で、社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおいては、写真の被写体であったミリヤの人となりが広く知られることはなかった。 (ja)
  • 「コザラから来た少女」または「コザルチャンカ」(Kozarčanka (セルビア・クロアチア語: Козарчанка)は、第二次世界大戦中にユーゴスラヴィアの芸術写真家(Žorž Skrigin)により撮影された一葉の写真である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国を象徴する一枚、同国の「イコン」となった。1943年から1944年にかけての冬に、ボスニア北部で撮影された。ティトーの名にちなむという帽子をかぶり、サブマシンガンの負い革を肩にかけた、笑顔のパルチザンの少女が写っている。 被写体となった少女は、ミリヤ・マリン(Milja Marin, 1926年 - 2007年、撮影当時の姓はトロマン Toroman)。ボスニアに住んでいたセルビア系住民で、のふもとにある村から来た。戦後はパルチザンの戦友と結婚しプリイェドルの町で暮らした。戦後、写真「コザラから来た少女」は、学校教科書で繰り返し取り上げられたほか、戦時中の出来事を検証する論文やプロパガンダポスターなどでも言及された。その一方で、社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおいては、写真の被写体であったミリヤの人となりが広く知られることはなかった。 (ja)
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  • 「コザラから来た少女」または「コザルチャンカ」(Kozarčanka (セルビア・クロアチア語: Козарчанка)は、第二次世界大戦中にユーゴスラヴィアの芸術写真家(Žorž Skrigin)により撮影された一葉の写真である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国を象徴する一枚、同国の「イコン」となった。1943年から1944年にかけての冬に、ボスニア北部で撮影された。ティトーの名にちなむという帽子をかぶり、サブマシンガンの負い革を肩にかけた、笑顔のパルチザンの少女が写っている。 被写体となった少女は、ミリヤ・マリン(Milja Marin, 1926年 - 2007年、撮影当時の姓はトロマン Toroman)。ボスニアに住んでいたセルビア系住民で、のふもとにある村から来た。戦後はパルチザンの戦友と結婚しプリイェドルの町で暮らした。戦後、写真「コザラから来た少女」は、学校教科書で繰り返し取り上げられたほか、戦時中の出来事を検証する論文やプロパガンダポスターなどでも言及された。その一方で、社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおいては、写真の被写体であったミリヤの人となりが広く知られることはなかった。 (ja)
  • 「コザラから来た少女」または「コザルチャンカ」(Kozarčanka (セルビア・クロアチア語: Козарчанка)は、第二次世界大戦中にユーゴスラヴィアの芸術写真家(Žorž Skrigin)により撮影された一葉の写真である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国を象徴する一枚、同国の「イコン」となった。1943年から1944年にかけての冬に、ボスニア北部で撮影された。ティトーの名にちなむという帽子をかぶり、サブマシンガンの負い革を肩にかけた、笑顔のパルチザンの少女が写っている。 被写体となった少女は、ミリヤ・マリン(Milja Marin, 1926年 - 2007年、撮影当時の姓はトロマン Toroman)。ボスニアに住んでいたセルビア系住民で、のふもとにある村から来た。戦後はパルチザンの戦友と結婚しプリイェドルの町で暮らした。戦後、写真「コザラから来た少女」は、学校教科書で繰り返し取り上げられたほか、戦時中の出来事を検証する論文やプロパガンダポスターなどでも言及された。その一方で、社会主義政権下のユーゴスラヴィアにおいては、写真の被写体であったミリヤの人となりが広く知られることはなかった。 (ja)
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