宋金戦争の年表では、宋金戦争(1125年 - 1234年)における戦闘や和平などの一連の出来事を一覧として示す。 この戦争は、ツングース語を使う中国東北部の部族連合体であった女真族が、1115年に契丹の遼帝国に対抗し、金朝が成立した事が切っ掛けとなって起こった。1122年、宋と海上の盟を結んだ金は殆ど単独で遼を滅亡させた。残された両国の関係はその後悪化し、1125年冬に金は宋に宣戦し、ここで宋金戦争が始まった。宋を攻略するため南下した金軍は東西二つに分かれて華北に進入し、宋の首都の開封を包囲した。宋が賠償を約束すると金軍は撤退したが、宋は約束を守らなかった。1127年、宋の盟約違反により再び南下した金軍は開封を陥落させ、上皇徽宗・皇帝欽宗を始めとする宋の帝室や官僚を捕らえて人質として連行。金軍の追手から逃れた徽宗の九男の康王趙構(高宗)は江南へ後退し、宋朝を再建した(南宋)。1142年、金と南宋の間で紹興の和議が結ばれ、淮水が両国の国境線に定められ、更に南宋が歳幣を捧げる条件で和平が成立。それでも、常に緊張状態にあった両国はしばしば衝突を起こし、金の滅亡までに両国は4回以上衝突した。