原田 隆種(はらだ たかたね、永正10年(1513年)-天正16年(1588年))は、戦国時代の武将。原田氏(大蔵氏嫡流)。筑前国高祖山城城主。原田興種(おきたね)の子。正妻は大内義隆の娘であり、また家の慣例に倣って主君・義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗る。原田了栄(- りょうえい)の名でも知られる。通称、弾正。子に原田種門(たねかど)、草野鎮永(原田種吉)、原田種繁(たねしげ)、原田親種などがいる。享禄年間に、父の興種から家督を譲られたと推測される。北九州における大内氏方の国人領主の一人であったが、大内義隆の自刃後は毛利氏に味方し、陶氏、大友氏と戦った。大友氏が北九州に侵攻するようになると家中は分裂し、お家騒動で子の種門と種繁を失い、のちに孫(次男の種吉の子、原田信種か)を龍造寺氏に人質に出すことになった。隠居し家督を親種に譲り了栄と号したが、親種とその子秀種(ひでたね)は了栄に先立ち非業(第一次生の松原合戦と池田川原合戦)の死を遂げたため、草野氏を継いだ種吉(草野鎮永)の次男信種に跡を継がせた。
This content in DBpedia Japanese is extracted from Wikipedia by DBpedia Community and is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.