龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異。涼州酒泉郡表氏県の人。父は龐子夏、母は『後漢書』列女伝に敵討ちで立伝されている趙娥。 はじめ涼州の従事として破羌県長を務めていたが、その後、張猛が叛逆し涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こった。龐淯はこれを聞き官位を棄てて、馬で一日中走り続け邯鄲商の遺体の元に到着し、号泣したという。張猛はこの件で彼が義士であることを知り、殺さないよう命じている。 またその何年か後、酒泉太守の徐揖に請願され主簿となったが、黄昂という者が叛逆し、城を包囲された。龐淯は夜の間に城壁を越え包囲を脱出して、張掖・敦煌の両郡に救援を要請した。張掖・敦煌の両郡はこれを疑い援軍を派兵しなかったが、龐淯が自らの命に代えようとしてまで要請したため、その義に感じ入り、ついに派兵を決断した。 後に、このことを聞いた曹操は彼を配下として招き、掾属としたという。曹丕(文帝)が帝位に就くと駙馬都尉の官を送られ、さらに西海太守となり関内侯の爵位を賜った。後年、中央に召し返され、中散大夫に任じられている。

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  • 龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異。涼州酒泉郡表氏県の人。父は龐子夏、母は『後漢書』列女伝に敵討ちで立伝されている趙娥。 はじめ涼州の従事として破羌県長を務めていたが、その後、張猛が叛逆し涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こった。龐淯はこれを聞き官位を棄てて、馬で一日中走り続け邯鄲商の遺体の元に到着し、号泣したという。張猛はこの件で彼が義士であることを知り、殺さないよう命じている。 またその何年か後、酒泉太守の徐揖に請願され主簿となったが、黄昂という者が叛逆し、城を包囲された。龐淯は夜の間に城壁を越え包囲を脱出して、張掖・敦煌の両郡に救援を要請した。張掖・敦煌の両郡はこれを疑い援軍を派兵しなかったが、龐淯が自らの命に代えようとしてまで要請したため、その義に感じ入り、ついに派兵を決断した。 後に、このことを聞いた曹操は彼を配下として招き、掾属としたという。曹丕(文帝)が帝位に就くと駙馬都尉の官を送られ、さらに西海太守となり関内侯の爵位を賜った。後年、中央に召し返され、中散大夫に任じられている。 (ja)
  • 龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異。涼州酒泉郡表氏県の人。父は龐子夏、母は『後漢書』列女伝に敵討ちで立伝されている趙娥。 はじめ涼州の従事として破羌県長を務めていたが、その後、張猛が叛逆し涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こった。龐淯はこれを聞き官位を棄てて、馬で一日中走り続け邯鄲商の遺体の元に到着し、号泣したという。張猛はこの件で彼が義士であることを知り、殺さないよう命じている。 またその何年か後、酒泉太守の徐揖に請願され主簿となったが、黄昂という者が叛逆し、城を包囲された。龐淯は夜の間に城壁を越え包囲を脱出して、張掖・敦煌の両郡に救援を要請した。張掖・敦煌の両郡はこれを疑い援軍を派兵しなかったが、龐淯が自らの命に代えようとしてまで要請したため、その義に感じ入り、ついに派兵を決断した。 後に、このことを聞いた曹操は彼を配下として招き、掾属としたという。曹丕(文帝)が帝位に就くと駙馬都尉の官を送られ、さらに西海太守となり関内侯の爵位を賜った。後年、中央に召し返され、中散大夫に任じられている。 (ja)
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  • 龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異。涼州酒泉郡表氏県の人。父は龐子夏、母は『後漢書』列女伝に敵討ちで立伝されている趙娥。 はじめ涼州の従事として破羌県長を務めていたが、その後、張猛が叛逆し涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こった。龐淯はこれを聞き官位を棄てて、馬で一日中走り続け邯鄲商の遺体の元に到着し、号泣したという。張猛はこの件で彼が義士であることを知り、殺さないよう命じている。 またその何年か後、酒泉太守の徐揖に請願され主簿となったが、黄昂という者が叛逆し、城を包囲された。龐淯は夜の間に城壁を越え包囲を脱出して、張掖・敦煌の両郡に救援を要請した。張掖・敦煌の両郡はこれを疑い援軍を派兵しなかったが、龐淯が自らの命に代えようとしてまで要請したため、その義に感じ入り、ついに派兵を決断した。 後に、このことを聞いた曹操は彼を配下として招き、掾属としたという。曹丕(文帝)が帝位に就くと駙馬都尉の官を送られ、さらに西海太守となり関内侯の爵位を賜った。後年、中央に召し返され、中散大夫に任じられている。 (ja)
  • 龐 淯(ほう いく、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子異。涼州酒泉郡表氏県の人。父は龐子夏、母は『後漢書』列女伝に敵討ちで立伝されている趙娥。 はじめ涼州の従事として破羌県長を務めていたが、その後、張猛が叛逆し涼州刺史の邯鄲商を殺害するという事件が起こった。龐淯はこれを聞き官位を棄てて、馬で一日中走り続け邯鄲商の遺体の元に到着し、号泣したという。張猛はこの件で彼が義士であることを知り、殺さないよう命じている。 またその何年か後、酒泉太守の徐揖に請願され主簿となったが、黄昂という者が叛逆し、城を包囲された。龐淯は夜の間に城壁を越え包囲を脱出して、張掖・敦煌の両郡に救援を要請した。張掖・敦煌の両郡はこれを疑い援軍を派兵しなかったが、龐淯が自らの命に代えようとしてまで要請したため、その義に感じ入り、ついに派兵を決断した。 後に、このことを聞いた曹操は彼を配下として招き、掾属としたという。曹丕(文帝)が帝位に就くと駙馬都尉の官を送られ、さらに西海太守となり関内侯の爵位を賜った。後年、中央に召し返され、中散大夫に任じられている。 (ja)
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  • 龐淯 (ja)
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