魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。 石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだといわれ、武后の時代には亀袋にかえられたこともあった(一説に亀を玄武、魚を鯉即ち唐の皇室の姓「李」の音通とする説もある。)唐代には紫衣に金魚袋(三品以上)・緋衣に銀魚袋(五品以上)という姿が高官の象徴とされ、位階相当で使用されたほか、地方官や軍務などの重職についたときなどに仮に許されることもあった。(位階に相当しない紫衣の着用を「借紫」、緋衣の着用を「借緋」といい、これらにはそれぞれ金銀魚袋がともなった。なお『白氏文集』には刺史になった白居易が緋袍・緋衫に銀魚袋を身につけ、都の官職に戻ると魚袋をやめて緑袍に戻ったという記事が見える。また「賜緋銀魚袋」などという「賜」も「借」同様である)宋代においても同様であったが、元・明以降にこの制度はない。唐代中期以降は中国でも装飾品になり、形状も五代頃の安西楡林窟の壁画によると日本のものにほぼ同様である。養老令の「衣服令」には規定がなく、平安時代初期に唐代の制度を摂取したものとみられるが、いつ取り入れられたかを明記する資料は無い。

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  • 魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。 石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだといわれ、武后の時代には亀袋にかえられたこともあった(一説に亀を玄武、魚を鯉即ち唐の皇室の姓「李」の音通とする説もある。)唐代には紫衣に金魚袋(三品以上)・緋衣に銀魚袋(五品以上)という姿が高官の象徴とされ、位階相当で使用されたほか、地方官や軍務などの重職についたときなどに仮に許されることもあった。(位階に相当しない紫衣の着用を「借紫」、緋衣の着用を「借緋」といい、これらにはそれぞれ金銀魚袋がともなった。なお『白氏文集』には刺史になった白居易が緋袍・緋衫に銀魚袋を身につけ、都の官職に戻ると魚袋をやめて緑袍に戻ったという記事が見える。また「賜緋銀魚袋」などという「賜」も「借」同様である)宋代においても同様であったが、元・明以降にこの制度はない。唐代中期以降は中国でも装飾品になり、形状も五代頃の安西楡林窟の壁画によると日本のものにほぼ同様である。養老令の「衣服令」には規定がなく、平安時代初期に唐代の制度を摂取したものとみられるが、いつ取り入れられたかを明記する資料は無い。 (ja)
  • 魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。 石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだといわれ、武后の時代には亀袋にかえられたこともあった(一説に亀を玄武、魚を鯉即ち唐の皇室の姓「李」の音通とする説もある。)唐代には紫衣に金魚袋(三品以上)・緋衣に銀魚袋(五品以上)という姿が高官の象徴とされ、位階相当で使用されたほか、地方官や軍務などの重職についたときなどに仮に許されることもあった。(位階に相当しない紫衣の着用を「借紫」、緋衣の着用を「借緋」といい、これらにはそれぞれ金銀魚袋がともなった。なお『白氏文集』には刺史になった白居易が緋袍・緋衫に銀魚袋を身につけ、都の官職に戻ると魚袋をやめて緑袍に戻ったという記事が見える。また「賜緋銀魚袋」などという「賜」も「借」同様である)宋代においても同様であったが、元・明以降にこの制度はない。唐代中期以降は中国でも装飾品になり、形状も五代頃の安西楡林窟の壁画によると日本のものにほぼ同様である。養老令の「衣服令」には規定がなく、平安時代初期に唐代の制度を摂取したものとみられるが、いつ取り入れられたかを明記する資料は無い。 (ja)
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  • 魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。 石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだといわれ、武后の時代には亀袋にかえられたこともあった(一説に亀を玄武、魚を鯉即ち唐の皇室の姓「李」の音通とする説もある。)唐代には紫衣に金魚袋(三品以上)・緋衣に銀魚袋(五品以上)という姿が高官の象徴とされ、位階相当で使用されたほか、地方官や軍務などの重職についたときなどに仮に許されることもあった。(位階に相当しない紫衣の着用を「借紫」、緋衣の着用を「借緋」といい、これらにはそれぞれ金銀魚袋がともなった。なお『白氏文集』には刺史になった白居易が緋袍・緋衫に銀魚袋を身につけ、都の官職に戻ると魚袋をやめて緑袍に戻ったという記事が見える。また「賜緋銀魚袋」などという「賜」も「借」同様である)宋代においても同様であったが、元・明以降にこの制度はない。唐代中期以降は中国でも装飾品になり、形状も五代頃の安西楡林窟の壁画によると日本のものにほぼ同様である。養老令の「衣服令」には規定がなく、平安時代初期に唐代の制度を摂取したものとみられるが、いつ取り入れられたかを明記する資料は無い。 (ja)
  • 魚袋(ぎょたい)は、束帯装束に用いる装飾品。 石帯に吊るすもので、古代中国で用いられた割符が装飾品化したものといわれる。唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだといわれ、武后の時代には亀袋にかえられたこともあった(一説に亀を玄武、魚を鯉即ち唐の皇室の姓「李」の音通とする説もある。)唐代には紫衣に金魚袋(三品以上)・緋衣に銀魚袋(五品以上)という姿が高官の象徴とされ、位階相当で使用されたほか、地方官や軍務などの重職についたときなどに仮に許されることもあった。(位階に相当しない紫衣の着用を「借紫」、緋衣の着用を「借緋」といい、これらにはそれぞれ金銀魚袋がともなった。なお『白氏文集』には刺史になった白居易が緋袍・緋衫に銀魚袋を身につけ、都の官職に戻ると魚袋をやめて緑袍に戻ったという記事が見える。また「賜緋銀魚袋」などという「賜」も「借」同様である)宋代においても同様であったが、元・明以降にこの制度はない。唐代中期以降は中国でも装飾品になり、形状も五代頃の安西楡林窟の壁画によると日本のものにほぼ同様である。養老令の「衣服令」には規定がなく、平安時代初期に唐代の制度を摂取したものとみられるが、いつ取り入れられたかを明記する資料は無い。 (ja)
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  • 魚袋 (ja)
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