馬詰 柳太郎(まづめ りゅうたろう、弘化元年(1844年) - ?)は、新選組隊士。美男五人衆の一人。 中国地方出身といわれ、文久3年(1863年)9月以前に、父・と共に新選組に入隊。芹沢鴨暗殺の日でもある同年9月18日(16日とも)、新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。 美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、郷士の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。その後、女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が「南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ」歌を作ってからかったという。そのため馬詰親子は居辛くなって、ある夜(池田屋事件の当日とも)に新選組を脱走した。 なお、父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使い走りをさせられていたといわれる。

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  • 馬詰 柳太郎(まづめ りゅうたろう、弘化元年(1844年) - ?)は、新選組隊士。美男五人衆の一人。 中国地方出身といわれ、文久3年(1863年)9月以前に、父・と共に新選組に入隊。芹沢鴨暗殺の日でもある同年9月18日(16日とも)、新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。 美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、郷士の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。その後、女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が「南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ」歌を作ってからかったという。そのため馬詰親子は居辛くなって、ある夜(池田屋事件の当日とも)に新選組を脱走した。 なお、父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使い走りをさせられていたといわれる。 (ja)
  • 馬詰 柳太郎(まづめ りゅうたろう、弘化元年(1844年) - ?)は、新選組隊士。美男五人衆の一人。 中国地方出身といわれ、文久3年(1863年)9月以前に、父・と共に新選組に入隊。芹沢鴨暗殺の日でもある同年9月18日(16日とも)、新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。 美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、郷士の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。その後、女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が「南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ」歌を作ってからかったという。そのため馬詰親子は居辛くなって、ある夜(池田屋事件の当日とも)に新選組を脱走した。 なお、父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使い走りをさせられていたといわれる。 (ja)
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  • 馬詰 柳太郎(まづめ りゅうたろう、弘化元年(1844年) - ?)は、新選組隊士。美男五人衆の一人。 中国地方出身といわれ、文久3年(1863年)9月以前に、父・と共に新選組に入隊。芹沢鴨暗殺の日でもある同年9月18日(16日とも)、新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。 美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、郷士の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。その後、女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が「南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ」歌を作ってからかったという。そのため馬詰親子は居辛くなって、ある夜(池田屋事件の当日とも)に新選組を脱走した。 なお、父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使い走りをさせられていたといわれる。 (ja)
  • 馬詰 柳太郎(まづめ りゅうたろう、弘化元年(1844年) - ?)は、新選組隊士。美男五人衆の一人。 中国地方出身といわれ、文久3年(1863年)9月以前に、父・と共に新選組に入隊。芹沢鴨暗殺の日でもある同年9月18日(16日とも)、新選組隊士達が島原へ遊興しに行った際には、屯所で留守番をしていた。 美男で女好きだったが気が弱く、仲間の隊士達と飲みに行くこともできず、郷士の子守女(色黒・短身・ちぢれ毛の醜女)と仲が良かった。その後、女の腹がふくれはじめたため、他の隊士達が「南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ」歌を作ってからかったという。そのため馬詰親子は居辛くなって、ある夜(池田屋事件の当日とも)に新選組を脱走した。 なお、父・新太郎は45,6歳で、号を柳元斎と称して書が上手い一方、刀の差し方などまるで知らず、隊士達によく使い走りをさせられていたといわれる。 (ja)
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  • 馬詰柳太郎 (ja)
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