『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各3巻に増大した代わり、雑歌を『玉葉集』の5巻から3巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各3巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。

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  • 『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各3巻に増大した代わり、雑歌を『玉葉集』の5巻から3巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各3巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 持明院統の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、伏見院(85首)と永福門院(68首)を筆頭に、上位入集歌人は花園院(54首)・京極為兼(52首)・(39首)の順に並ぶ。花園院のほか、後伏見院・光厳院・ら後期京極派の代表歌人も30首以上の入集を果たした。なお前代歌人では紀貫之・俊成・定家・後鳥羽院らが勅撰集の慣例に沿って尊重されている。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 注解 * 岩佐美代子『風雅和歌集全注釈』笠間書院(上中下) * 次田香澄・岩佐美代子校注『玉葉集風雅集攷』三弥井書店 * 井上宗雄校注・訳『新編日本古典文学全集49 中世和歌集』小学館。抜粋 (ja)
  • 『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各3巻に増大した代わり、雑歌を『玉葉集』の5巻から3巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各3巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 持明院統の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、伏見院(85首)と永福門院(68首)を筆頭に、上位入集歌人は花園院(54首)・京極為兼(52首)・(39首)の順に並ぶ。花園院のほか、後伏見院・光厳院・ら後期京極派の代表歌人も30首以上の入集を果たした。なお前代歌人では紀貫之・俊成・定家・後鳥羽院らが勅撰集の慣例に沿って尊重されている。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 注解 * 岩佐美代子『風雅和歌集全注釈』笠間書院(上中下) * 次田香澄・岩佐美代子校注『玉葉集風雅集攷』三弥井書店 * 井上宗雄校注・訳『新編日本古典文学全集49 中世和歌集』小学館。抜粋 (ja)
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  • 『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各3巻に増大した代わり、雑歌を『玉葉集』の5巻から3巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各3巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 (ja)
  • 『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各3巻に増大した代わり、雑歌を『玉葉集』の5巻から3巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各3巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。 貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。 学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 (ja)
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  • 風雅和歌集 (ja)
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