鞠 周(きく しゅう、朝: 국주; クク チュ、1101年 - )は、中国の宋の軍人で、朝鮮氏族の潭陽鞠氏の始祖である。 中国の宋の公卿大夫を務めていたが、宋の欽宗が金に反旗を翻して失敗し拉致されると(靖康の変)、1128年に高麗に亡命した。鞠周が高麗に亡命すると仁宗は大喜びし、鞠周を軍神として崇め、監正官に任命、高麗に出仕させた。 金が宋を制圧して、高麗に君臣関係と貢物を強要すると、仁宗は鞠周を金国奉使に任命して外交に当たらせ、鞠周は王命を受けて複数回、金に行き来しながら君臣関係の不当性を主張した。この功績により鞠周は仁宗から三重大匡の官職を賜り、秋城君に封ぜられた。 墓所は松京(開城)の万寿山にある。子孫は毎年10月に時祭を捧げる。

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  • 鞠 周(きく しゅう、朝: 국주; クク チュ、1101年 - )は、中国の宋の軍人で、朝鮮氏族の潭陽鞠氏の始祖である。 中国の宋の公卿大夫を務めていたが、宋の欽宗が金に反旗を翻して失敗し拉致されると(靖康の変)、1128年に高麗に亡命した。鞠周が高麗に亡命すると仁宗は大喜びし、鞠周を軍神として崇め、監正官に任命、高麗に出仕させた。 金が宋を制圧して、高麗に君臣関係と貢物を強要すると、仁宗は鞠周を金国奉使に任命して外交に当たらせ、鞠周は王命を受けて複数回、金に行き来しながら君臣関係の不当性を主張した。この功績により鞠周は仁宗から三重大匡の官職を賜り、秋城君に封ぜられた。 墓所は松京(開城)の万寿山にある。子孫は毎年10月に時祭を捧げる。 (ja)
  • 鞠 周(きく しゅう、朝: 국주; クク チュ、1101年 - )は、中国の宋の軍人で、朝鮮氏族の潭陽鞠氏の始祖である。 中国の宋の公卿大夫を務めていたが、宋の欽宗が金に反旗を翻して失敗し拉致されると(靖康の変)、1128年に高麗に亡命した。鞠周が高麗に亡命すると仁宗は大喜びし、鞠周を軍神として崇め、監正官に任命、高麗に出仕させた。 金が宋を制圧して、高麗に君臣関係と貢物を強要すると、仁宗は鞠周を金国奉使に任命して外交に当たらせ、鞠周は王命を受けて複数回、金に行き来しながら君臣関係の不当性を主張した。この功績により鞠周は仁宗から三重大匡の官職を賜り、秋城君に封ぜられた。 墓所は松京(開城)の万寿山にある。子孫は毎年10月に時祭を捧げる。 (ja)
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  • 鞠 周(きく しゅう、朝: 국주; クク チュ、1101年 - )は、中国の宋の軍人で、朝鮮氏族の潭陽鞠氏の始祖である。 中国の宋の公卿大夫を務めていたが、宋の欽宗が金に反旗を翻して失敗し拉致されると(靖康の変)、1128年に高麗に亡命した。鞠周が高麗に亡命すると仁宗は大喜びし、鞠周を軍神として崇め、監正官に任命、高麗に出仕させた。 金が宋を制圧して、高麗に君臣関係と貢物を強要すると、仁宗は鞠周を金国奉使に任命して外交に当たらせ、鞠周は王命を受けて複数回、金に行き来しながら君臣関係の不当性を主張した。この功績により鞠周は仁宗から三重大匡の官職を賜り、秋城君に封ぜられた。 墓所は松京(開城)の万寿山にある。子孫は毎年10月に時祭を捧げる。 (ja)
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