陳 垣(ちん えん)は、清末から中華民国・中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵。 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、(現在の嶺南大学と中山大学嶺南学院)に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年は91。

Property Value
dbo:abstract
  • 陳 垣(ちん えん)は、清末から中華民国・中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵。 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、(現在の嶺南大学と中山大学嶺南学院)に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年は91。 (ja)
  • 陳 垣(ちん えん)は、清末から中華民国・中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵。 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、(現在の嶺南大学と中山大学嶺南学院)に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年は91。 (ja)
dbo:alias
  • ちん えん (ja)
  • ちん えん (ja)
dbo:birthDate
  • 2012-01-01 (xsd:date)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageID
  • 531348 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1443 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 91723573 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:ピン音
  • (ja)
  • (ja)
prop-ja:ラテン字
  • Ch'en Yüan (ja)
  • Ch'en Yüan (ja)
prop-ja:出生
  • 0001-11-12 (xsd:gMonthDay)
  • (清光緒6年10月初10日) (ja)
prop-ja:出身地
  • 広東省広州府新会県 (ja)
  • 広東省広州府新会県 (ja)
prop-ja:名前
  • 陳垣 (ja)
  • 陳垣 (ja)
prop-ja:和名
  • ちん えん (ja)
  • ちん えん (ja)
prop-ja:死去
  • 0001-06-21 (xsd:gMonthDay)
  • 北京市 (ja)
prop-ja:注音
  • ㄔㄣˊ ㄩㄢˊ (ja)
  • ㄔㄣˊ ㄩㄢˊ (ja)
prop-ja:画像
  • 180 (xsd:integer)
prop-ja:画像の説明
  • 国会議員当選時に撮影 (ja)
  • 国会議員当選時に撮影 (ja)
prop-ja:発音
  • チェン・ユエン (ja)
  • チェン・ユエン (ja)
prop-ja:簡体字
  • (ja)
  • (ja)
prop-ja:繁体字
  • (ja)
  • (ja)
prop-ja:職業
  • 歴史家・政治家 (ja)
  • 歴史家・政治家 (ja)
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 陳 垣(ちん えん)は、清末から中華民国・中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵。 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、(現在の嶺南大学と中山大学嶺南学院)に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年は91。 (ja)
  • 陳 垣(ちん えん)は、清末から中華民国・中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。字は援庵。 青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。 1907年、(現在の嶺南大学と中山大学嶺南学院)に入学する。1911年の辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。 1926年から1952年まで、北京の輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。 1959年に中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年は91。 (ja)
rdfs:label
  • 陳垣 (ja)
  • 陳垣 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • 陳垣 (ja)
  • 陳垣 (ja)
is dbo:wikiPageWikiLink of
is prop-ja:before of
is prop-ja:influences of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of