間部 詮允(まなべ あきさね / あきざね)は、越前鯖江藩の第6代藩主。間部家7代。第5代藩主・間部詮熙の長男。母は家臣・近藤氏の娘。正室は亀井矩賢の娘・載子(英松院)。 鯖江に生まれる。幼名は直之助。寛政12年(1800年)、世子となる。文化2年(1805年)12月、従五位下・主膳正に叙任する。文化8年(1811年)12月に父が死去したため、翌年3月16日に跡を継いだ。 外桜田門番役などを務めた。また、藩校・進徳館を創設して文学を奨励し、藩士の家禄制度を改正するなどして藩政の再建に尽力したが、文化11年(1814年)7月17日の参勤交代途上に急死した(死去の月日は5月27日とする史料もある)。享年25。家督は弟の詮勝が養嗣子となって継いだ。法号は馨香院。墓所は鯖江市深江町の万慶寺。

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  • 間部 詮允(まなべ あきさね / あきざね)は、越前鯖江藩の第6代藩主。間部家7代。第5代藩主・間部詮熙の長男。母は家臣・近藤氏の娘。正室は亀井矩賢の娘・載子(英松院)。 鯖江に生まれる。幼名は直之助。寛政12年(1800年)、世子となる。文化2年(1805年)12月、従五位下・主膳正に叙任する。文化8年(1811年)12月に父が死去したため、翌年3月16日に跡を継いだ。 外桜田門番役などを務めた。また、藩校・進徳館を創設して文学を奨励し、藩士の家禄制度を改正するなどして藩政の再建に尽力したが、文化11年(1814年)7月17日の参勤交代途上に急死した(死去の月日は5月27日とする史料もある)。享年25。家督は弟の詮勝が養嗣子となって継いだ。法号は馨香院。墓所は鯖江市深江町の万慶寺。 (ja)
  • 間部 詮允(まなべ あきさね / あきざね)は、越前鯖江藩の第6代藩主。間部家7代。第5代藩主・間部詮熙の長男。母は家臣・近藤氏の娘。正室は亀井矩賢の娘・載子(英松院)。 鯖江に生まれる。幼名は直之助。寛政12年(1800年)、世子となる。文化2年(1805年)12月、従五位下・主膳正に叙任する。文化8年(1811年)12月に父が死去したため、翌年3月16日に跡を継いだ。 外桜田門番役などを務めた。また、藩校・進徳館を創設して文学を奨励し、藩士の家禄制度を改正するなどして藩政の再建に尽力したが、文化11年(1814年)7月17日の参勤交代途上に急死した(死去の月日は5月27日とする史料もある)。享年25。家督は弟の詮勝が養嗣子となって継いだ。法号は馨香院。墓所は鯖江市深江町の万慶寺。 (ja)
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  • 間部 詮允(まなべ あきさね / あきざね)は、越前鯖江藩の第6代藩主。間部家7代。第5代藩主・間部詮熙の長男。母は家臣・近藤氏の娘。正室は亀井矩賢の娘・載子(英松院)。 鯖江に生まれる。幼名は直之助。寛政12年(1800年)、世子となる。文化2年(1805年)12月、従五位下・主膳正に叙任する。文化8年(1811年)12月に父が死去したため、翌年3月16日に跡を継いだ。 外桜田門番役などを務めた。また、藩校・進徳館を創設して文学を奨励し、藩士の家禄制度を改正するなどして藩政の再建に尽力したが、文化11年(1814年)7月17日の参勤交代途上に急死した(死去の月日は5月27日とする史料もある)。享年25。家督は弟の詮勝が養嗣子となって継いだ。法号は馨香院。墓所は鯖江市深江町の万慶寺。 (ja)
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