長宗我部氏(ちょうそかべし/ちょうすがめし)は、日本の武家の一つ。長曽(曾)我部とも記される。室町時代以降、通字に「親」を用いた。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。 中世の土佐国長岡郡に拠った在地領主(国人)で、土佐の有力七豪族(土佐七雄)の一つに数えられる。戦国時代に勢力を広げ、元親の代で戦国大名に成長し土佐を統一する。さらに隣国の阿波・伊予に進出したが、羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに敗れ、土佐一国に減封されて臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。 元親の跡を継いだ子の盛親は関ヶ原の戦いで西軍に参戦・敗北し改易される。盛親とその子は大坂の陣で大坂方に味方して刑死し、大名としての長宗我部氏は滅亡、嫡流は断絶したとされる。他家に仕えるか帰農した傍系の子孫が、現在に残っている。