遠山 友貞(とおやま ともさだ、1641年5月11日(寛永18年4月2日) - 1675年6月28日(延宝3年5月6日))は、美濃苗木藩の第3代藩主。通称は久大夫。 第2代藩主・遠山秀友の長男。母は滋野井季吉の娘。正室は久世広之の娘。継室は木下利貞の娘。子に遠山友春(長男)・娘(室)・娘(浅野長恒正室)。官位は従五位下・信濃守。 苗木にて生まれる。寛永19年(1642年)5月、父の秀友が亡くなったため、わずか2歳で家督を継いだ。 慶安4年(1651年)6月29日、将軍・徳川家綱にお目見えする。 寛文元年(1661年)増上寺勤番となり、12月28日、従五位下・信濃守に叙任する。江戸城の石垣普請や駿府加番などを勤めた。駿府加番には家老の纐纈市兵衛が随行した。藩政では新田開発を奨励し、罪人を移住させて新たに開墾させるなどの大きな成果を収めた。 寛文4年(1664年)10月6日 家老の遠山太左衛門は、やはり家老で従弟の遠山勘兵衛(初代勘兵衛の孫、300石)宅を訪れ、斬合いとなり、太左衛門は勘兵衛を斬殺したが、自分もその場で勘兵衛の家士の者に討たれた。 このため、重臣遠山両家共が断絶となり、苗木藩で遠山を名乗るのは藩主のみとなった。 延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死した。享年35。家督は長男の友春が継いだ。 墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。

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  • 遠山 友貞(とおやま ともさだ、1641年5月11日(寛永18年4月2日) - 1675年6月28日(延宝3年5月6日))は、美濃苗木藩の第3代藩主。通称は久大夫。 第2代藩主・遠山秀友の長男。母は滋野井季吉の娘。正室は久世広之の娘。継室は木下利貞の娘。子に遠山友春(長男)・娘(室)・娘(浅野長恒正室)。官位は従五位下・信濃守。 苗木にて生まれる。寛永19年(1642年)5月、父の秀友が亡くなったため、わずか2歳で家督を継いだ。 慶安4年(1651年)6月29日、将軍・徳川家綱にお目見えする。 寛文元年(1661年)増上寺勤番となり、12月28日、従五位下・信濃守に叙任する。江戸城の石垣普請や駿府加番などを勤めた。駿府加番には家老の纐纈市兵衛が随行した。藩政では新田開発を奨励し、罪人を移住させて新たに開墾させるなどの大きな成果を収めた。 寛文4年(1664年)10月6日 家老の遠山太左衛門は、やはり家老で従弟の遠山勘兵衛(初代勘兵衛の孫、300石)宅を訪れ、斬合いとなり、太左衛門は勘兵衛を斬殺したが、自分もその場で勘兵衛の家士の者に討たれた。 このため、重臣遠山両家共が断絶となり、苗木藩で遠山を名乗るのは藩主のみとなった。 延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死した。享年35。家督は長男の友春が継いだ。 墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。 (ja)
  • 遠山 友貞(とおやま ともさだ、1641年5月11日(寛永18年4月2日) - 1675年6月28日(延宝3年5月6日))は、美濃苗木藩の第3代藩主。通称は久大夫。 第2代藩主・遠山秀友の長男。母は滋野井季吉の娘。正室は久世広之の娘。継室は木下利貞の娘。子に遠山友春(長男)・娘(室)・娘(浅野長恒正室)。官位は従五位下・信濃守。 苗木にて生まれる。寛永19年(1642年)5月、父の秀友が亡くなったため、わずか2歳で家督を継いだ。 慶安4年(1651年)6月29日、将軍・徳川家綱にお目見えする。 寛文元年(1661年)増上寺勤番となり、12月28日、従五位下・信濃守に叙任する。江戸城の石垣普請や駿府加番などを勤めた。駿府加番には家老の纐纈市兵衛が随行した。藩政では新田開発を奨励し、罪人を移住させて新たに開墾させるなどの大きな成果を収めた。 寛文4年(1664年)10月6日 家老の遠山太左衛門は、やはり家老で従弟の遠山勘兵衛(初代勘兵衛の孫、300石)宅を訪れ、斬合いとなり、太左衛門は勘兵衛を斬殺したが、自分もその場で勘兵衛の家士の者に討たれた。 このため、重臣遠山両家共が断絶となり、苗木藩で遠山を名乗るのは藩主のみとなった。 延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死した。享年35。家督は長男の友春が継いだ。 墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。 (ja)
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  • 遠山 友貞(とおやま ともさだ、1641年5月11日(寛永18年4月2日) - 1675年6月28日(延宝3年5月6日))は、美濃苗木藩の第3代藩主。通称は久大夫。 第2代藩主・遠山秀友の長男。母は滋野井季吉の娘。正室は久世広之の娘。継室は木下利貞の娘。子に遠山友春(長男)・娘(室)・娘(浅野長恒正室)。官位は従五位下・信濃守。 苗木にて生まれる。寛永19年(1642年)5月、父の秀友が亡くなったため、わずか2歳で家督を継いだ。 慶安4年(1651年)6月29日、将軍・徳川家綱にお目見えする。 寛文元年(1661年)増上寺勤番となり、12月28日、従五位下・信濃守に叙任する。江戸城の石垣普請や駿府加番などを勤めた。駿府加番には家老の纐纈市兵衛が随行した。藩政では新田開発を奨励し、罪人を移住させて新たに開墾させるなどの大きな成果を収めた。 寛文4年(1664年)10月6日 家老の遠山太左衛門は、やはり家老で従弟の遠山勘兵衛(初代勘兵衛の孫、300石)宅を訪れ、斬合いとなり、太左衛門は勘兵衛を斬殺したが、自分もその場で勘兵衛の家士の者に討たれた。 このため、重臣遠山両家共が断絶となり、苗木藩で遠山を名乗るのは藩主のみとなった。 延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死した。享年35。家督は長男の友春が継いだ。 墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。 (ja)
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