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- 道尊(どうそん、安元元年(1175年) - 安貞2年8月5日(1228年9月4日))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。 治承4年(1180年)父以仁王の挙兵に際して平家に捕らえられる。その後、宮の処置をめぐっては、平清盛と宗盛の間で紛糾したというが、旧皇族(以仁王は平家の圧力で「源以光」として臣籍降下させられていた)という出自もあり、死罪に処するわけにもいかず、結局仁和寺において出家させることとなった。殷富門院亮子内親王(後白河天皇第一皇女)は自らの御所を仏寺としたに道尊を引き取り養育したことから、同院の開基は道尊とされた。 建久4年(1193年)に補され、元久元年(1204年)5月法印に叙され、12月には権僧正に任じられる。建永元年(1206年)には東大寺別当、翌承元元年(1207年)7月には東寺長者。更に12月には仁和寺別当になった。建永3年(1209年)に僧正に就任した。承久3年(1221年)には大僧正に昇進した。安貞2年(1228年)8月5日に入寂した。土御門天皇・順徳天皇・後堀河天皇の3代に渡るを務めた。 (ja)
- 道尊(どうそん、安元元年(1175年) - 安貞2年8月5日(1228年9月4日))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。 治承4年(1180年)父以仁王の挙兵に際して平家に捕らえられる。その後、宮の処置をめぐっては、平清盛と宗盛の間で紛糾したというが、旧皇族(以仁王は平家の圧力で「源以光」として臣籍降下させられていた)という出自もあり、死罪に処するわけにもいかず、結局仁和寺において出家させることとなった。殷富門院亮子内親王(後白河天皇第一皇女)は自らの御所を仏寺としたに道尊を引き取り養育したことから、同院の開基は道尊とされた。 建久4年(1193年)に補され、元久元年(1204年)5月法印に叙され、12月には権僧正に任じられる。建永元年(1206年)には東大寺別当、翌承元元年(1207年)7月には東寺長者。更に12月には仁和寺別当になった。建永3年(1209年)に僧正に就任した。承久3年(1221年)には大僧正に昇進した。安貞2年(1228年)8月5日に入寂した。土御門天皇・順徳天皇・後堀河天皇の3代に渡るを務めた。 (ja)
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- 道尊(どうそん、安元元年(1175年) - 安貞2年8月5日(1228年9月4日))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。 治承4年(1180年)父以仁王の挙兵に際して平家に捕らえられる。その後、宮の処置をめぐっては、平清盛と宗盛の間で紛糾したというが、旧皇族(以仁王は平家の圧力で「源以光」として臣籍降下させられていた)という出自もあり、死罪に処するわけにもいかず、結局仁和寺において出家させることとなった。殷富門院亮子内親王(後白河天皇第一皇女)は自らの御所を仏寺としたに道尊を引き取り養育したことから、同院の開基は道尊とされた。 建久4年(1193年)に補され、元久元年(1204年)5月法印に叙され、12月には権僧正に任じられる。建永元年(1206年)には東大寺別当、翌承元元年(1207年)7月には東寺長者。更に12月には仁和寺別当になった。建永3年(1209年)に僧正に就任した。承久3年(1221年)には大僧正に昇進した。安貞2年(1228年)8月5日に入寂した。土御門天皇・順徳天皇・後堀河天皇の3代に渡るを務めた。 (ja)
- 道尊(どうそん、安元元年(1175年) - 安貞2年8月5日(1228年9月4日))は、平安時代末期の皇族・僧侶。以仁王(後白河天皇第三皇子)の第二王子。母は伊予守の娘(一説に伊予守平教盛の娘である三位局)。北陸宮の異母弟にあたる。若宮・安井宮ともいう。 治承4年(1180年)父以仁王の挙兵に際して平家に捕らえられる。その後、宮の処置をめぐっては、平清盛と宗盛の間で紛糾したというが、旧皇族(以仁王は平家の圧力で「源以光」として臣籍降下させられていた)という出自もあり、死罪に処するわけにもいかず、結局仁和寺において出家させることとなった。殷富門院亮子内親王(後白河天皇第一皇女)は自らの御所を仏寺としたに道尊を引き取り養育したことから、同院の開基は道尊とされた。 建久4年(1193年)に補され、元久元年(1204年)5月法印に叙され、12月には権僧正に任じられる。建永元年(1206年)には東大寺別当、翌承元元年(1207年)7月には東寺長者。更に12月には仁和寺別当になった。建永3年(1209年)に僧正に就任した。承久3年(1221年)には大僧正に昇進した。安貞2年(1228年)8月5日に入寂した。土御門天皇・順徳天皇・後堀河天皇の3代に渡るを務めた。 (ja)
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- 道尊 (以仁王王子) (ja)
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