護聖院宮(ごしょういんのみや)は、室町時代に存在した南朝系の世襲宮家の一つ。後村上天皇の皇子で、後亀山天皇の東宮(皇太弟)であった某親王を家祖とするが、近年の研究ではこれを惟成親王に比定する説が有力である。南北朝合一の後、皇位回復を目指して反幕姿勢を崩さなかった小倉宮家とは対照的に、概ね幕府体制に順応的な態度を取っていた。 宮号は、比叡山延暦寺の有力坊院である(護聖院)に隠棲していたことに由来すると考えられている。同院は建武期から梶井門跡の筆頭門徒として室町幕府の政治的・軍事的な信頼が厚かったため、幕府が敵対を懸念する南朝皇族を託す先として適当だったらしい。「護聖院」の表記には、護正院・護生院・護性院・五常院などの字が宛てられることもある。