肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。 九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役(1281年)後、半ば捕虜とした尾崎で暮らした敗残兵が、大陸から持ち込んだ技術で製陶を始めたという。ルーツについては他にも諸説あるが、地元で「蒙古屋敷の跡」と伝わる場所があり、古いの陶器が出土する。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸時代には幕府への献上品にもなった。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。 始まりが古い分、近隣の伊万里焼や有田焼に比べ工程が簡素で、焼成温度も800度と低い。 昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年(2005年)時点では「日の隈窯」一軒のみが残っていたが、かつての尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。

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  • 肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。 九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役(1281年)後、半ば捕虜とした尾崎で暮らした敗残兵が、大陸から持ち込んだ技術で製陶を始めたという。ルーツについては他にも諸説あるが、地元で「蒙古屋敷の跡」と伝わる場所があり、古いの陶器が出土する。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸時代には幕府への献上品にもなった。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。 始まりが古い分、近隣の伊万里焼や有田焼に比べ工程が簡素で、焼成温度も800度と低い。 昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年(2005年)時点では「日の隈窯」一軒のみが残っていたが、かつての尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。 (ja)
  • 肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。 九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役(1281年)後、半ば捕虜とした尾崎で暮らした敗残兵が、大陸から持ち込んだ技術で製陶を始めたという。ルーツについては他にも諸説あるが、地元で「蒙古屋敷の跡」と伝わる場所があり、古いの陶器が出土する。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸時代には幕府への献上品にもなった。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。 始まりが古い分、近隣の伊万里焼や有田焼に比べ工程が簡素で、焼成温度も800度と低い。 昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年(2005年)時点では「日の隈窯」一軒のみが残っていたが、かつての尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。 (ja)
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  • 肥前尾崎焼(ひぜんおざきやき)は佐賀県神埼市で焼かれている陶器である。 九州でも有数の古窯で、伝承によると弘安の役(1281年)後、半ば捕虜とした尾崎で暮らした敗残兵が、大陸から持ち込んだ技術で製陶を始めたという。ルーツについては他にも諸説あるが、地元で「蒙古屋敷の跡」と伝わる場所があり、古いの陶器が出土する。安土桃山時代には長右衛門右京という陶工が作った茶器を豊臣秀吉に献上したところ、大変激賞し右京に御朱印を賜ったと伝えられる。江戸時代には幕府への献上品にもなった。江戸末期には生活雑器を焼いており、規模は小さいながらもそれなりに繁栄した。だがその頃の尾崎焼は非常に脆いものであったため、現存する物は極めて少ない。 始まりが古い分、近隣の伊万里焼や有田焼に比べ工程が簡素で、焼成温度も800度と低い。 昭和初期には火鉢や七輪、植木鉢、焙烙などを焼いていたが、その頃には既に5軒しか残っていなかった。戦後にはほとんどの火が絶え、平成17年(2005年)時点では「日の隈窯」一軒のみが残っていたが、かつての尾崎焼とは全く異なる焼き物である。現在の尾崎焼は地元産の土、釉薬、絵具を使い、白土を碾いて土に混ぜ、それに和紙染めという手法を用いて絵付けを行うものである。モチーフは近くの草花で、それを丁寧に写し取った物を意匠に凝らす。その作品は非常に温かみがあり、気品が漂う一品である。 (ja)
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  • 肥前尾崎焼 (ja)
  • 肥前尾崎焼 (ja)
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