経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世の次男で母はの娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。

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  • 経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世の次男で母はの娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。 法主として経豪出奔後の佛光寺立て直しに尽力、6坊を重用し、摂津国平野の檀家奥野清順に末寺転派阻止に功があったとし、親鸞ゆかりの宝器や漢方薬を授けたといわれる。文明15年(1483年)7月に応仁の乱で焼失した佛光寺の再建を募り『佛光寺造立奉加帳』を記し(光教が作成したとも)、12月に法眼に叙任。長享元年(1487年)4月に大僧都に任じられ、同年に室町幕府9代将軍足利義尚祈願の公書を納めた。永正9年(1512年)に死去、享年58。子の経光が後を継いだ。 (ja)
  • 経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世の次男で母はの娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。 法主として経豪出奔後の佛光寺立て直しに尽力、6坊を重用し、摂津国平野の檀家奥野清順に末寺転派阻止に功があったとし、親鸞ゆかりの宝器や漢方薬を授けたといわれる。文明15年(1483年)7月に応仁の乱で焼失した佛光寺の再建を募り『佛光寺造立奉加帳』を記し(光教が作成したとも)、12月に法眼に叙任。長享元年(1487年)4月に大僧都に任じられ、同年に室町幕府9代将軍足利義尚祈願の公書を納めた。永正9年(1512年)に死去、享年58。子の経光が後を継いだ。 (ja)
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  • 経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世の次男で母はの娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。 (ja)
  • 経誉(きょうよ、康正元年(1455年) - 永正9年5月6日(1512年6月29日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての浄土真宗の僧。佛光寺(真宗佛光寺派)第14世。号は乗蓮社、諡号は勧喜心院。佛光寺12世の次男で母はの娘、経豪(蓮教)の弟。二条持通の猶子。子に。 浄土宗の寺・知恩院の徳山和尚の弟子となり、修行の末に和尚上人位を得ていたが、文明14年(1482年)に実家の佛光寺第14世法主だった兄の経豪が本願寺法主蓮如を慕い出奔、全46坊のうち42坊に上る多くの末寺も佛光寺から離れるという事態になったため、前法主で叔父の光教や残った末寺6坊の運動で急遽佛光寺へ戻り法主を継いだ。この時、経豪はそもそも佛光寺第14世を継いでいなかったこととされた為、経誉が第14世となった。 しかし、継承準備が無いまま宗旨替えをしたため、実権は光教と6坊に握られ、寺務も光教が明応3年(1494年)に病に倒れるまで担当したといわれる。 (ja)
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