神谷 直光(かみや なおみつ、天正9年(1581年) - 寛文3年(1663年))は、江戸時代初期の兵法家、剣客。の創始者。晩年には紙屋の自称も使用した。号は傳心斎(伝心斎)、通称は丈左衛門(または文左衛門)、諱は真光とする別字も伝わる。 若年から武芸を磨いて十五もの流派を修めたが、四十を過ぎて小笠原長治に敗れたことを契機に小笠原門下に入り、を修行した。長治の弟と立会って敗れたとする異伝もある。 ある時、直光が「武蔵とて打込めないことはない」というと長治に窘められ、2人は勝負することとなった。武蔵のように、二刀をもって挑む長治に対して直光は「我に策あり」と言い、立会いの末に勝利した。 67歳の時、剣術の本意を「これまでの全ての試合は外道であり、根本は仁義礼智に基づかねば本物でない。己を捨て、直心で行い、邪心を絶たねば自然に悖る」と定め、真新陰流を直心流と改めた。 道統はが継いでとし、更にを経て直心影流となり、幕末の江戸四大道場の一角となった。

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  • 神谷 直光(かみや なおみつ、天正9年(1581年) - 寛文3年(1663年))は、江戸時代初期の兵法家、剣客。の創始者。晩年には紙屋の自称も使用した。号は傳心斎(伝心斎)、通称は丈左衛門(または文左衛門)、諱は真光とする別字も伝わる。 若年から武芸を磨いて十五もの流派を修めたが、四十を過ぎて小笠原長治に敗れたことを契機に小笠原門下に入り、を修行した。長治の弟と立会って敗れたとする異伝もある。 ある時、直光が「武蔵とて打込めないことはない」というと長治に窘められ、2人は勝負することとなった。武蔵のように、二刀をもって挑む長治に対して直光は「我に策あり」と言い、立会いの末に勝利した。 67歳の時、剣術の本意を「これまでの全ての試合は外道であり、根本は仁義礼智に基づかねば本物でない。己を捨て、直心で行い、邪心を絶たねば自然に悖る」と定め、真新陰流を直心流と改めた。 道統はが継いでとし、更にを経て直心影流となり、幕末の江戸四大道場の一角となった。 (ja)
  • 神谷 直光(かみや なおみつ、天正9年(1581年) - 寛文3年(1663年))は、江戸時代初期の兵法家、剣客。の創始者。晩年には紙屋の自称も使用した。号は傳心斎(伝心斎)、通称は丈左衛門(または文左衛門)、諱は真光とする別字も伝わる。 若年から武芸を磨いて十五もの流派を修めたが、四十を過ぎて小笠原長治に敗れたことを契機に小笠原門下に入り、を修行した。長治の弟と立会って敗れたとする異伝もある。 ある時、直光が「武蔵とて打込めないことはない」というと長治に窘められ、2人は勝負することとなった。武蔵のように、二刀をもって挑む長治に対して直光は「我に策あり」と言い、立会いの末に勝利した。 67歳の時、剣術の本意を「これまでの全ての試合は外道であり、根本は仁義礼智に基づかねば本物でない。己を捨て、直心で行い、邪心を絶たねば自然に悖る」と定め、真新陰流を直心流と改めた。 道統はが継いでとし、更にを経て直心影流となり、幕末の江戸四大道場の一角となった。 (ja)
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  • 神谷直光 (ja)
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