真弓 広有(まゆみ ひろあり、嘉元3年(1305年) - 正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。征西将軍に従い九州に下った。通称は次郎左衛門。官位は従五位。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。父は。兄弟に。 『尊卑分脈』によると系譜は、藤原北家長良流。長良の次男である遠経の子・の六男・を祖とする(承平天慶の乱で有名な藤原純友は良範の三男)。広有は純素から数えて13代目の末裔である。 太平記によると、建武元年(1334年)秋、疫病が猛威を振るい夥しい死者が出た頃、紫宸殿の屋根に怪鳥(以津真天)が現れ「いつまで、いつまで」と鳴いて人々を恐怖させた。公卿達は源頼政の鵺退治にあやかり、弓の名手に退治させようと広有に要請、広有は鏑矢で見事怪鳥を仕留めた。怪鳥は頭部が人間のようで、曲がった嘴に鋸のような歯が並び、体は蛇のようで、両足には剣のように鋭い爪があり、翼の長さは1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。この功により、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、叙爵され因幡にある荘園を恩賞として得た。 南北朝の動乱期に入ると、懐良親王に従い九州へ向かい各地を転戦し「大津山の関(松風の関)」(肥後と筑後とを結ぶ関所)の守備を担った。後、関付近の山里に隠棲した。正平24年/応安2年(1369年)3月19日、死去。享年65。

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  • 真弓 広有(まゆみ ひろあり、嘉元3年(1305年) - 正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。征西将軍に従い九州に下った。通称は次郎左衛門。官位は従五位。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。父は。兄弟に。 『尊卑分脈』によると系譜は、藤原北家長良流。長良の次男である遠経の子・の六男・を祖とする(承平天慶の乱で有名な藤原純友は良範の三男)。広有は純素から数えて13代目の末裔である。 太平記によると、建武元年(1334年)秋、疫病が猛威を振るい夥しい死者が出た頃、紫宸殿の屋根に怪鳥(以津真天)が現れ「いつまで、いつまで」と鳴いて人々を恐怖させた。公卿達は源頼政の鵺退治にあやかり、弓の名手に退治させようと広有に要請、広有は鏑矢で見事怪鳥を仕留めた。怪鳥は頭部が人間のようで、曲がった嘴に鋸のような歯が並び、体は蛇のようで、両足には剣のように鋭い爪があり、翼の長さは1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。この功により、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、叙爵され因幡にある荘園を恩賞として得た。 南北朝の動乱期に入ると、懐良親王に従い九州へ向かい各地を転戦し「大津山の関(松風の関)」(肥後と筑後とを結ぶ関所)の守備を担った。後、関付近の山里に隠棲した。正平24年/応安2年(1369年)3月19日、死去。享年65。 元阪神タイガースの真弓明信は子孫にあたる。 (ja)
  • 真弓 広有(まゆみ ひろあり、嘉元3年(1305年) - 正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。征西将軍に従い九州に下った。通称は次郎左衛門。官位は従五位。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。父は。兄弟に。 『尊卑分脈』によると系譜は、藤原北家長良流。長良の次男である遠経の子・の六男・を祖とする(承平天慶の乱で有名な藤原純友は良範の三男)。広有は純素から数えて13代目の末裔である。 太平記によると、建武元年(1334年)秋、疫病が猛威を振るい夥しい死者が出た頃、紫宸殿の屋根に怪鳥(以津真天)が現れ「いつまで、いつまで」と鳴いて人々を恐怖させた。公卿達は源頼政の鵺退治にあやかり、弓の名手に退治させようと広有に要請、広有は鏑矢で見事怪鳥を仕留めた。怪鳥は頭部が人間のようで、曲がった嘴に鋸のような歯が並び、体は蛇のようで、両足には剣のように鋭い爪があり、翼の長さは1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。この功により、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、叙爵され因幡にある荘園を恩賞として得た。 南北朝の動乱期に入ると、懐良親王に従い九州へ向かい各地を転戦し「大津山の関(松風の関)」(肥後と筑後とを結ぶ関所)の守備を担った。後、関付近の山里に隠棲した。正平24年/応安2年(1369年)3月19日、死去。享年65。 元阪神タイガースの真弓明信は子孫にあたる。 (ja)
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  • 真弓 広有(まゆみ ひろあり、嘉元3年(1305年) - 正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。征西将軍に従い九州に下った。通称は次郎左衛門。官位は従五位。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。父は。兄弟に。 『尊卑分脈』によると系譜は、藤原北家長良流。長良の次男である遠経の子・の六男・を祖とする(承平天慶の乱で有名な藤原純友は良範の三男)。広有は純素から数えて13代目の末裔である。 太平記によると、建武元年(1334年)秋、疫病が猛威を振るい夥しい死者が出た頃、紫宸殿の屋根に怪鳥(以津真天)が現れ「いつまで、いつまで」と鳴いて人々を恐怖させた。公卿達は源頼政の鵺退治にあやかり、弓の名手に退治させようと広有に要請、広有は鏑矢で見事怪鳥を仕留めた。怪鳥は頭部が人間のようで、曲がった嘴に鋸のような歯が並び、体は蛇のようで、両足には剣のように鋭い爪があり、翼の長さは1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。この功により、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、叙爵され因幡にある荘園を恩賞として得た。 南北朝の動乱期に入ると、懐良親王に従い九州へ向かい各地を転戦し「大津山の関(松風の関)」(肥後と筑後とを結ぶ関所)の守備を担った。後、関付近の山里に隠棲した。正平24年/応安2年(1369年)3月19日、死去。享年65。 (ja)
  • 真弓 広有(まゆみ ひろあり、嘉元3年(1305年) - 正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。征西将軍に従い九州に下った。通称は次郎左衛門。官位は従五位。太平記では隠岐次郎左衛門広有と表記される。法名は弘寂。父は。兄弟に。 『尊卑分脈』によると系譜は、藤原北家長良流。長良の次男である遠経の子・の六男・を祖とする(承平天慶の乱で有名な藤原純友は良範の三男)。広有は純素から数えて13代目の末裔である。 太平記によると、建武元年(1334年)秋、疫病が猛威を振るい夥しい死者が出た頃、紫宸殿の屋根に怪鳥(以津真天)が現れ「いつまで、いつまで」と鳴いて人々を恐怖させた。公卿達は源頼政の鵺退治にあやかり、弓の名手に退治させようと広有に要請、広有は鏑矢で見事怪鳥を仕留めた。怪鳥は頭部が人間のようで、曲がった嘴に鋸のような歯が並び、体は蛇のようで、両足には剣のように鋭い爪があり、翼の長さは1丈6尺(約4.8メートル)もあったという。この功により、後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜り、叙爵され因幡にある荘園を恩賞として得た。 南北朝の動乱期に入ると、懐良親王に従い九州へ向かい各地を転戦し「大津山の関(松風の関)」(肥後と筑後とを結ぶ関所)の守備を担った。後、関付近の山里に隠棲した。正平24年/応安2年(1369年)3月19日、死去。享年65。 (ja)
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  • 真弓広有 (ja)
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