白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年 - 1961年)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。1960年4月より立命館大学教授に就任。

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  • 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年 - 1961年)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。1960年4月より立命館大学教授に就任。 (ja)
  • 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年 - 1961年)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。1960年4月より立命館大学教授に就任。 (ja)
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  • 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年 - 1961年)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。1960年4月より立命館大学教授に就任。 (ja)
  • 白杉 庄一郎(しらすぎ しょういちろう、1909年 - 1961年)は、日本の経済学者。経済学史やマルクス経済学の研究者として知られる。 1928年に京都師範学校(現・京都教育大学)本科第2部に入学し、翌年卒業。続けて京都帝国大学経済学部に入学(当初選科、1930年より本科)し、1931年に大学院に進学。石川興二に師事し、1934年に京都帝大経済学部講師に就任した。1940年に助教授に昇格するが、太平洋戦争終結後に経済学部で起きた「戦争責任の自己批判」論に伴い、1946年に京都帝大を退職する。1947年、彦根経済専門学校(1949年より滋賀大学経済学部)の教授となる。1960年4月より立命館大学教授に就任。 (ja)
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  • 白杉庄一郎 (ja)
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