渋江 光重(しぶえ みつしげ、寛文7年(1667年) - 寛保3年9月14日(1743年10月30日))は、江戸時代前期の久保田藩の執政。渋江政光の三男のを祖とする渋江家分家(家格は廻座宿老)の第3代当主で婿養子。実家は梅津政景を祖とする梅津家分家。通称は富之輔、十兵衛、播磨。諱は梅津家時代は忠和、渋江家に入ってから光重。号は松陰軒。子は今宮永教夫人、今宮義透夫人などの4男2女。 藩主佐竹義格の治世中に江戸幕府より命じられた荒川と利根川の堤防修復工事の副奉行などを勤める。