河野 元虎(こうの もととら、1761年(宝暦11年) - 寛政7年8月26日(1795年10月8日))は、江戸時代の囲碁棋士、大阪生まれ、本因坊察元門下、五段。幼名は虎之助。10世本因坊烈元の跡目候補として御城碁にも出仕したが、夭逝する。 荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、8歳の時に京都の神沢杜口に四子で打って互角であったとして、小島道芝五段によって江戸へ上り、本因坊家に入る(『翁草』)。天明3年(1783年)に五段で元虎を名乗って外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、3歳年少で既に安井家当主となっていた安井仙角仙知に白番3目負。御城碁は寛政6年(1794年)まで13局を勤めた。仙知とは 御城碁で2勝4敗、天明2年から仙知先相先、天明5年から互先、寛政2年から元虎先相先となり、14局がある。烈元は元虎を跡目とする意志があったというが、寛政7年(1795年)に大阪で没する。烈元は3年後に宮重楽山を跡目とした。 著作として「碁則変」があったとされるが、刊行直前に没したため、現存していない。囲碁の起源から沿革、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べていた。

Property Value
dbo:abstract
  • 河野 元虎(こうの もととら、1761年(宝暦11年) - 寛政7年8月26日(1795年10月8日))は、江戸時代の囲碁棋士、大阪生まれ、本因坊察元門下、五段。幼名は虎之助。10世本因坊烈元の跡目候補として御城碁にも出仕したが、夭逝する。 荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、8歳の時に京都の神沢杜口に四子で打って互角であったとして、小島道芝五段によって江戸へ上り、本因坊家に入る(『翁草』)。天明3年(1783年)に五段で元虎を名乗って外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、3歳年少で既に安井家当主となっていた安井仙角仙知に白番3目負。御城碁は寛政6年(1794年)まで13局を勤めた。仙知とは 御城碁で2勝4敗、天明2年から仙知先相先、天明5年から互先、寛政2年から元虎先相先となり、14局がある。烈元は元虎を跡目とする意志があったというが、寛政7年(1795年)に大阪で没する。烈元は3年後に宮重楽山を跡目とした。 著作として「碁則変」があったとされるが、刊行直前に没したため、現存していない。囲碁の起源から沿革、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べていた。 (ja)
  • 河野 元虎(こうの もととら、1761年(宝暦11年) - 寛政7年8月26日(1795年10月8日))は、江戸時代の囲碁棋士、大阪生まれ、本因坊察元門下、五段。幼名は虎之助。10世本因坊烈元の跡目候補として御城碁にも出仕したが、夭逝する。 荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、8歳の時に京都の神沢杜口に四子で打って互角であったとして、小島道芝五段によって江戸へ上り、本因坊家に入る(『翁草』)。天明3年(1783年)に五段で元虎を名乗って外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、3歳年少で既に安井家当主となっていた安井仙角仙知に白番3目負。御城碁は寛政6年(1794年)まで13局を勤めた。仙知とは 御城碁で2勝4敗、天明2年から仙知先相先、天明5年から互先、寛政2年から元虎先相先となり、14局がある。烈元は元虎を跡目とする意志があったというが、寛政7年(1795年)に大阪で没する。烈元は3年後に宮重楽山を跡目とした。 著作として「碁則変」があったとされるが、刊行直前に没したため、現存していない。囲碁の起源から沿革、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べていた。 (ja)
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 1303776 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1302 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 81150746 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
dct:subject
rdfs:comment
  • 河野 元虎(こうの もととら、1761年(宝暦11年) - 寛政7年8月26日(1795年10月8日))は、江戸時代の囲碁棋士、大阪生まれ、本因坊察元門下、五段。幼名は虎之助。10世本因坊烈元の跡目候補として御城碁にも出仕したが、夭逝する。 荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、8歳の時に京都の神沢杜口に四子で打って互角であったとして、小島道芝五段によって江戸へ上り、本因坊家に入る(『翁草』)。天明3年(1783年)に五段で元虎を名乗って外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、3歳年少で既に安井家当主となっていた安井仙角仙知に白番3目負。御城碁は寛政6年(1794年)まで13局を勤めた。仙知とは 御城碁で2勝4敗、天明2年から仙知先相先、天明5年から互先、寛政2年から元虎先相先となり、14局がある。烈元は元虎を跡目とする意志があったというが、寛政7年(1795年)に大阪で没する。烈元は3年後に宮重楽山を跡目とした。 著作として「碁則変」があったとされるが、刊行直前に没したため、現存していない。囲碁の起源から沿革、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べていた。 (ja)
  • 河野 元虎(こうの もととら、1761年(宝暦11年) - 寛政7年8月26日(1795年10月8日))は、江戸時代の囲碁棋士、大阪生まれ、本因坊察元門下、五段。幼名は虎之助。10世本因坊烈元の跡目候補として御城碁にも出仕したが、夭逝する。 荒物商の家に生れ、幼時から碁を打ち、8歳の時に京都の神沢杜口に四子で打って互角であったとして、小島道芝五段によって江戸へ上り、本因坊家に入る(『翁草』)。天明3年(1783年)に五段で元虎を名乗って外家ながら御城碁初出仕。これは察元の推挙によるものと思われ、3歳年少で既に安井家当主となっていた安井仙角仙知に白番3目負。御城碁は寛政6年(1794年)まで13局を勤めた。仙知とは 御城碁で2勝4敗、天明2年から仙知先相先、天明5年から互先、寛政2年から元虎先相先となり、14局がある。烈元は元虎を跡目とする意志があったというが、寛政7年(1795年)に大阪で没する。烈元は3年後に宮重楽山を跡目とした。 著作として「碁則変」があったとされるが、刊行直前に没したため、現存していない。囲碁の起源から沿革、あらゆる変化を記した著であったとされ、また碁勢論として、本因坊道策を碁聖と列し、仙角仙知を「最も古今の変化に長ず(最長古今變化)」と述べていた。 (ja)
rdfs:label
  • 河野元虎 (ja)
  • 河野元虎 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of