比羅夫丸(ひらふまる)は、日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。

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  • 比羅夫丸(ひらふまる)は、日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。 (ja)
  • 比羅夫丸(ひらふまる)は、日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。 (ja)
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  • パーソンス式反動タービン 3台 (ja)
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  • *左 1,213軸馬力 *中央 936軸馬力 *右 1,218軸馬力 *合計 3,367軸馬力 (ja)
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  • 海峡渡船 (ja)
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  • 比羅夫丸(ひらふまる)は、日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。 (ja)
  • 比羅夫丸(ひらふまる)は、日本初の蒸気タービン船で、日本鉄道が直営の青函連絡船航路開設のため、1906年(明治39年)10月、イギリス スコットランドのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に建造を発注し、1908年(明治41年)春、相次いで就航させた2隻の同型の海峡渡船の第1船である。船名は発注当時の日本鉄道社長、曾我祐準の意向により、北海道・東北開拓に縁のある歴史的人物の名より採ることとし、第1船は阿倍比羅夫から比羅夫丸、第2船は坂上田村麻呂から田村丸と命名され、これら2隻は比羅夫丸型と呼ばれた。 着工前の1906年(明治39年)11月1日、日本鉄道が鉄道国有法に基づき国有化されたため、逓信省鉄道作業局がこの建造契約を継承した。 青函連絡船としては、日露戦争後から第一次世界大戦後までの16年余りの期間運航されたが、その間の鉄道網の発達と北海道開拓の進展、更に第一次世界大戦により急増する客貨に、この2隻だけでは到底対応できず、就航後間もない時期から、雑多な傭船に囲まれての運航となった。しかしその高速性能を生かし、最後まで急行接続便として活躍し、青函航路引退後も四国航路で約10年間活躍した後解体された。 ここでは、比羅夫丸型建造に至るまでの青函連絡船の形成過程と、就航後の同航路についても記述する。 (ja)
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  • 比羅夫丸 (ja)
  • 比羅夫丸 (ja)
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