梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。出身は不明。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力。関中に割拠した軍閥の一人。『三国志』馬超伝注の『典略』に、関中十部の一角として名前があがる。 建安三年(198年)夏四月、・段煨・張横らとともに黄白城に立てこもる李傕を討伐し、これをやぶった。 建安十六年(211年)、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は藍田に駐屯していたが、建安十七年(212年)、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を受けて斬られた(「武帝紀」)。

Property Value
dbo:abstract
  • 梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。出身は不明。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力。関中に割拠した軍閥の一人。『三国志』馬超伝注の『典略』に、関中十部の一角として名前があがる。 建安三年(198年)夏四月、・段煨・張横らとともに黄白城に立てこもる李傕を討伐し、これをやぶった。 建安十六年(211年)、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は藍田に駐屯していたが、建安十七年(212年)、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を受けて斬られた(「武帝紀」)。 (ja)
  • 梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。出身は不明。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力。関中に割拠した軍閥の一人。『三国志』馬超伝注の『典略』に、関中十部の一角として名前があがる。 建安三年(198年)夏四月、・段煨・張横らとともに黄白城に立てこもる李傕を討伐し、これをやぶった。 建安十六年(211年)、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は藍田に駐屯していたが、建安十七年(212年)、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を受けて斬られた(「武帝紀」)。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 432972 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1151 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 87260208 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。出身は不明。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力。関中に割拠した軍閥の一人。『三国志』馬超伝注の『典略』に、関中十部の一角として名前があがる。 建安三年(198年)夏四月、・段煨・張横らとともに黄白城に立てこもる李傕を討伐し、これをやぶった。 建安十六年(211年)、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は藍田に駐屯していたが、建安十七年(212年)、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を受けて斬られた(「武帝紀」)。 (ja)
  • 梁 興(りょう こう、? - 212年)は、後漢末の武将。出身は不明。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張郃伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。 馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力。関中に割拠した軍閥の一人。『三国志』馬超伝注の『典略』に、関中十部の一角として名前があがる。 建安三年(198年)夏四月、・段煨・張横らとともに黄白城に立てこもる李傕を討伐し、これをやぶった。 建安十六年(211年)、潼関の戦いにおいて、馬超らと曹操は対峙した。曹操の命令を受けて、黄河を蒲阪津より渡河した徐晃と朱霊の歩兵・騎兵4000の別働隊が陣地の設営を開始したので、梁興は5000の歩兵と騎兵を率いてこれを襲撃したが敗れ、曹操の軍の渡河を許してしまった(「徐晃伝」)。 後に馬超らが離間計にかかり敗北し、安定の楊秋らが降伏した後も曹操に反抗を続けた。梁興の略奪に諸県はなすすべもなく、郡の役所に寄留せざるを得ない状況であったが、左馮翊である鄭渾は人民に恩愛を施すことにより支持を回復させ、賊の勢力をなかば自壊に追い込んでいった。梁興は残った者を集めて鄜に籠った(「鄭渾伝」)。 梁興は藍田に駐屯していたが、建安十七年(212年)、曹操が長安に駐屯させた夏侯淵らの討伐を受けて斬られた(「武帝紀」)。 (ja)
rdfs:label
  • 梁興 (ja)
  • 梁興 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of