桜井 忠胤(櫻井 忠胤、さくらい ただたね、明治14年(1881年)7月19日 - 昭和6年(1931年)8月28日)は、明治時代から昭和時代初期の従三位子爵。摂津尼崎藩最後の第7代藩主で尼崎藩知事の松平忠興改め櫻井忠興の三男、母錦子(きん)嘉永3年5月生まれ)は忠興の継室で小笠原忠幹の娘。忠胤の初名は善之助といった。妻は子爵本多忠敬の娘の鷹子。母方の叔父は小笠原忠炊。 学習院中等科では嘉仁親王の学友であった。明治28年(1895年)、父の忠興が死去し子爵を襲爵。旧遠州掛川藩主、貴族院子爵議員などを務めた。長女と二女をそれぞれ南部利克子爵の子息へ嫁がせる。昭和6年(1931年)薨去。享年50。墓所は青山霊園。子のが子爵を襲爵した。