桑原 盛員(くわはら もりかず、1721年 - 1799年)は、江戸幕府旗本。桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は芦谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は室、養女(松平忠恒の娘)、朝比奈良高室ら。 元文3年(1738年)父が没し家督を継ぐ(家禄500石)。寛保元年西の丸書院番となり、宝暦2年より進物の事を役儀とした。宝暦10年小十人頭となり、布衣を着ることを許される。宝暦13年目付となる。明和7年将軍徳川家治日光参拝に際して街道筋の検査、また、安永元年には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)に長崎奉行を拝命、同年従五位下能登守に叙任された。安永4年に作事奉行となり、安永5年(1776年)には勘定奉行に進んだ。買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められたが、天明8年(1788年)に大目付となった。寛政10年に西の丸留守居役となった。家督は、娘婿の(三男)が継いだ。

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  • 桑原 盛員(くわはら もりかず、1721年 - 1799年)は、江戸幕府旗本。桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は芦谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は室、養女(松平忠恒の娘)、朝比奈良高室ら。 元文3年(1738年)父が没し家督を継ぐ(家禄500石)。寛保元年西の丸書院番となり、宝暦2年より進物の事を役儀とした。宝暦10年小十人頭となり、布衣を着ることを許される。宝暦13年目付となる。明和7年将軍徳川家治日光参拝に際して街道筋の検査、また、安永元年には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)に長崎奉行を拝命、同年従五位下能登守に叙任された。安永4年に作事奉行となり、安永5年(1776年)には勘定奉行に進んだ。買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められたが、天明8年(1788年)に大目付となった。寛政10年に西の丸留守居役となった。家督は、娘婿の(三男)が継いだ。 (ja)
  • 桑原 盛員(くわはら もりかず、1721年 - 1799年)は、江戸幕府旗本。桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は芦谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は室、養女(松平忠恒の娘)、朝比奈良高室ら。 元文3年(1738年)父が没し家督を継ぐ(家禄500石)。寛保元年西の丸書院番となり、宝暦2年より進物の事を役儀とした。宝暦10年小十人頭となり、布衣を着ることを許される。宝暦13年目付となる。明和7年将軍徳川家治日光参拝に際して街道筋の検査、また、安永元年には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)に長崎奉行を拝命、同年従五位下能登守に叙任された。安永4年に作事奉行となり、安永5年(1776年)には勘定奉行に進んだ。買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められたが、天明8年(1788年)に大目付となった。寛政10年に西の丸留守居役となった。家督は、娘婿の(三男)が継いだ。 (ja)
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  • 桑原 盛員(くわはら もりかず、1721年 - 1799年)は、江戸幕府旗本。桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は芦谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は室、養女(松平忠恒の娘)、朝比奈良高室ら。 元文3年(1738年)父が没し家督を継ぐ(家禄500石)。寛保元年西の丸書院番となり、宝暦2年より進物の事を役儀とした。宝暦10年小十人頭となり、布衣を着ることを許される。宝暦13年目付となる。明和7年将軍徳川家治日光参拝に際して街道筋の検査、また、安永元年には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)に長崎奉行を拝命、同年従五位下能登守に叙任された。安永4年に作事奉行となり、安永5年(1776年)には勘定奉行に進んだ。買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められたが、天明8年(1788年)に大目付となった。寛政10年に西の丸留守居役となった。家督は、娘婿の(三男)が継いだ。 (ja)
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