東海映画撮影所(とうかいえいがさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。のが同撮影所の用地として借用した土地に、牧野省三がマキノ・プロダクションの中部撮影所(ちゅうぶさつえいじょ)を建設、1927年(昭和2年)5月に開所したのが最初である。マキノ撤退後は、竹本が同撮影所をレンタルスタジオとして稼働、小澤得二の、細山喜代松の、その後身のの等が使用した。 赤穂城のオープンセットがあり、牧野省三の大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』が撮影されたことで知られる。マキノ時代は名古屋撮影所(なごやさつえいじょ)とも呼ばれ、マキノ中部(マキノちゅうぶ)、マキノ名古屋(マキノなごや)と略称された。通称東海スタヂオ(とうかいスタジオ)。