東坊城家(ひがしぼうじょうけ)は、(正二位・参議・刑部卿、1242年 - 1315年)の次男(正三位・参議・治部卿、1284年 - 1343年)を祖とする堂上家である。ただし、茂長の時代には「坊城」と称し、孫の秀長・兄弟の時代に分立して「東坊城」「西坊城」と称したことから、秀長をもって祖をする考え方もある。西坊城家は江戸時代に2度目の絶家を迎えたが、その後も東坊城家では「坊城」「東坊城」の家名が併用されていた。