旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年(大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。 当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校として誕生した。 尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。 七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。

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  • 旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年(大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。 当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校として誕生した。 尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。 七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。 第二次世界大戦終了後にGHQ要請で設置されていた教育刷新委員会(委員長は東京帝国大学 南原繁総長)において、旧制高等学校の今後について、それらを国立大学に含める案と、カレッジ(独立学校)として前期大学を担わせる案(全国高等学校校長会議案)とが審議され、昭和22年12月下旬に後案が葬られ旧制高等学校の消滅が決定した。1948年(昭和23年)GHQの指導による旧制高校制度廃止に伴い、六・三・三・四の新学制が始まり、東高は新制東京大学に包括され、高等科は東京大学教養学部と東京大学附属高等学校へ、尋常科は東京大学附属中学校へと再編され、学制改革が進んだ。 1922年4月の開校から1950年3月の廃校に至るまで、卒業生の総数は4007名だった。 以下は、三国一朗(エッセイスト)の回想より。名古屋の八高を卒業し、昭和十六年(1941年)春に東京帝大文学部社会学科に入った三国は、口の利き方、制服の着こなしまではっきりちがう「異様なタイプの東大生の一群」に出会ってびっくりした、と回想している。三国は「彼らは私にとって<異邦人>に他ならなかった」とも言うが、そのスマートで紳士的な一群は七年制の旧制東京高等学校の出身者だった。 (ja)
  • 旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年(大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。 当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校として誕生した。 尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。 七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。 第二次世界大戦終了後にGHQ要請で設置されていた教育刷新委員会(委員長は東京帝国大学 南原繁総長)において、旧制高等学校の今後について、それらを国立大学に含める案と、カレッジ(独立学校)として前期大学を担わせる案(全国高等学校校長会議案)とが審議され、昭和22年12月下旬に後案が葬られ旧制高等学校の消滅が決定した。1948年(昭和23年)GHQの指導による旧制高校制度廃止に伴い、六・三・三・四の新学制が始まり、東高は新制東京大学に包括され、高等科は東京大学教養学部と東京大学附属高等学校へ、尋常科は東京大学附属中学校へと再編され、学制改革が進んだ。 1922年4月の開校から1950年3月の廃校に至るまで、卒業生の総数は4007名だった。 以下は、三国一朗(エッセイスト)の回想より。名古屋の八高を卒業し、昭和十六年(1941年)春に東京帝大文学部社会学科に入った三国は、口の利き方、制服の着こなしまではっきりちがう「異様なタイプの東大生の一群」に出会ってびっくりした、と回想している。三国は「彼らは私にとって<異邦人>に他ならなかった」とも言うが、そのスマートで紳士的な一群は七年制の旧制東京高等学校の出身者だった。 (ja)
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  • 旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年(大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。 当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校として誕生した。 尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。 七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。 (ja)
  • 旧制東京高等学校(きゅうせいとうきょうこうとうがっこう)は、1921年(大正10年)11月に設立された官立の旧制七年制高等学校。当時の略称は「東高」(とうこう / とんこう)。 当時の日本の七年制高校は、大正期に大学の範囲が旧制帝国大学から私立大学も含むように拡大された学制改革(1918年)とともに、高等学校が大増設される中で、新たな制度として1918年公布(翌1919年施行)の第二次高等学校令に基づき、高等学校は本科たる高等科の予備課程として(旧制)中学校の課程に相当する「尋常科」(修業年限4年)を併設することが可能で、東京高等学校は、日本初の7年制一貫教育(現在の中高一貫校制度に加え大学の1年間の教養課程)の高等学校として誕生した。 尋常科(修業年限4年)、および文科理科の高等科(修業年限3年)からなる官立7年制高校は、日本には2校のみ(旧制東京高等学校/1921年・旧制台北高等学校/1922年)だけ存在した。 七年を掛けてLiberal arts and sciences を教えるような学校をつくることが創設趣旨であり、英国のパブリックスクールやドイツのギムナジウムに範を取り、官立高校としては唯一高等科の文理両方に「丙類」(仏語専修)を設置するなど、独特の教育制度のもとに数々の傑出した人材を生みだした。東京帝大への進学率は8割に達し、エリート教育を実践する名門校であった。 (ja)
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