木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。 なお、「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。

Property Value
dbo:abstract
  • 木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。 なお、「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。 (ja)
  • 木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。 なお、「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。 (ja)
dbo:casualties
  • 257 (xsd:integer)
  • 810 (xsd:integer)
dbo:combatant
  • 島津軍
  • 伊東軍
dbo:result
  • 島津軍の勝利
dbo:strength
  • 3000(有力説)
  • 300(有力説)
dbo:wikiPageID
  • 661495 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 4453 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 92002034 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:battleName
  • 木崎原の戦い (ja)
  • 木崎原の戦い (ja)
prop-ja:casualties
  • 257 (xsd:integer)
  • 810 (xsd:integer)
prop-ja:combatant
  • 島津軍 (ja)
  • 伊東軍 (ja)
  • 島津軍 (ja)
  • 伊東軍 (ja)
prop-ja:commander
prop-ja:conflict
prop-ja:date
  • 0001-05-04 (xsd:gMonthDay)
prop-ja:place
  • 日向国真幸院木崎原 (ja)
  • 日向国真幸院木崎原 (ja)
prop-ja:result
  • 島津軍の勝利 (ja)
  • 島津軍の勝利 (ja)
prop-ja:strength
  • 300 (xsd:integer)
  • 3000 (xsd:integer)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。 なお、「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。 (ja)
  • 木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまったことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。但し桶狭間の戦いとは異なり、島津軍も兵力の85%以上が討死し、ほぼ全滅した。この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の謀略により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。 なお、「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。 (ja)
rdfs:label
  • 木崎原の戦い (ja)
  • 木崎原の戦い (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • 木崎原の戦い (ja)
  • 木崎原の戦い (ja)
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of