昭公(しょうこう、? - 紀元前404年)は、春秋戦国時代の宋の君主(在位前469年 - 前404年)。姓は子、名は特、あるいは得。公孫周の子。元公の曾孫にあたる。 『春秋左氏伝』によると、宋の景公に子がなかったため、公孫周の子の得と啓が養子に迎えられた。紀元前469年10月、景公が死去すると、景公の寵臣の大尹が啓を宋公に擁立した。右師の皇瑗・大司馬の皇非我・司徒の皇懐・左師の霊不緩・司城の楽茷・大司寇の楽朱鉏ら六卿がこれに反対したため、大尹は啓を連れて楚に亡命した。六卿たちは得(昭公)を宋公に擁立した。 いっぽう『史記』によると、公子特(昭公)は公孫糾の子であり、景公が父を殺したことを恨んでいた。景公が死去すると、公子特は太子を殺して自ら即位したという。 『韓詩外伝』によると、昭公はひとたび国を追われたが、過ちを反省して行いを改めると、2年経たないうちに宋人に迎えられて復位した。

Property Value
dbo:abstract
  • 昭公(しょうこう、? - 紀元前404年)は、春秋戦国時代の宋の君主(在位前469年 - 前404年)。姓は子、名は特、あるいは得。公孫周の子。元公の曾孫にあたる。 『春秋左氏伝』によると、宋の景公に子がなかったため、公孫周の子の得と啓が養子に迎えられた。紀元前469年10月、景公が死去すると、景公の寵臣の大尹が啓を宋公に擁立した。右師の皇瑗・大司馬の皇非我・司徒の皇懐・左師の霊不緩・司城の楽茷・大司寇の楽朱鉏ら六卿がこれに反対したため、大尹は啓を連れて楚に亡命した。六卿たちは得(昭公)を宋公に擁立した。 いっぽう『史記』によると、公子特(昭公)は公孫糾の子であり、景公が父を殺したことを恨んでいた。景公が死去すると、公子特は太子を殺して自ら即位したという。 『韓詩外伝』によると、昭公はひとたび国を追われたが、過ちを反省して行いを改めると、2年経たないうちに宋人に迎えられて復位した。 (ja)
  • 昭公(しょうこう、? - 紀元前404年)は、春秋戦国時代の宋の君主(在位前469年 - 前404年)。姓は子、名は特、あるいは得。公孫周の子。元公の曾孫にあたる。 『春秋左氏伝』によると、宋の景公に子がなかったため、公孫周の子の得と啓が養子に迎えられた。紀元前469年10月、景公が死去すると、景公の寵臣の大尹が啓を宋公に擁立した。右師の皇瑗・大司馬の皇非我・司徒の皇懐・左師の霊不緩・司城の楽茷・大司寇の楽朱鉏ら六卿がこれに反対したため、大尹は啓を連れて楚に亡命した。六卿たちは得(昭公)を宋公に擁立した。 いっぽう『史記』によると、公子特(昭公)は公孫糾の子であり、景公が父を殺したことを恨んでいた。景公が死去すると、公子特は太子を殺して自ら即位したという。 『韓詩外伝』によると、昭公はひとたび国を追われたが、過ちを反省して行いを改めると、2年経たないうちに宋人に迎えられて復位した。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 3586707 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 620 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 69137320 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 昭公(しょうこう、? - 紀元前404年)は、春秋戦国時代の宋の君主(在位前469年 - 前404年)。姓は子、名は特、あるいは得。公孫周の子。元公の曾孫にあたる。 『春秋左氏伝』によると、宋の景公に子がなかったため、公孫周の子の得と啓が養子に迎えられた。紀元前469年10月、景公が死去すると、景公の寵臣の大尹が啓を宋公に擁立した。右師の皇瑗・大司馬の皇非我・司徒の皇懐・左師の霊不緩・司城の楽茷・大司寇の楽朱鉏ら六卿がこれに反対したため、大尹は啓を連れて楚に亡命した。六卿たちは得(昭公)を宋公に擁立した。 いっぽう『史記』によると、公子特(昭公)は公孫糾の子であり、景公が父を殺したことを恨んでいた。景公が死去すると、公子特は太子を殺して自ら即位したという。 『韓詩外伝』によると、昭公はひとたび国を追われたが、過ちを反省して行いを改めると、2年経たないうちに宋人に迎えられて復位した。 (ja)
  • 昭公(しょうこう、? - 紀元前404年)は、春秋戦国時代の宋の君主(在位前469年 - 前404年)。姓は子、名は特、あるいは得。公孫周の子。元公の曾孫にあたる。 『春秋左氏伝』によると、宋の景公に子がなかったため、公孫周の子の得と啓が養子に迎えられた。紀元前469年10月、景公が死去すると、景公の寵臣の大尹が啓を宋公に擁立した。右師の皇瑗・大司馬の皇非我・司徒の皇懐・左師の霊不緩・司城の楽茷・大司寇の楽朱鉏ら六卿がこれに反対したため、大尹は啓を連れて楚に亡命した。六卿たちは得(昭公)を宋公に擁立した。 いっぽう『史記』によると、公子特(昭公)は公孫糾の子であり、景公が父を殺したことを恨んでいた。景公が死去すると、公子特は太子を殺して自ら即位したという。 『韓詩外伝』によると、昭公はひとたび国を追われたが、過ちを反省して行いを改めると、2年経たないうちに宋人に迎えられて復位した。 (ja)
rdfs:label
  • 昭公 (戦国宋) (ja)
  • 昭公 (戦国宋) (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageDisambiguates of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of