明一(みょういつ、神亀5年(728年)- 延暦17年3月27日(798年4月21日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は大宅氏。大和国添上郡大宅郷の出身。 東大寺の慈訓に師事して修学。753年(天平勝宝4年)東大寺盂蘭盆経の講師を、また780年(宝亀11年)には維摩会の講師をつとめた。延暦初年に行賀が唐から帰国した際に、宗議を問い質し行賀の学を痛罵した。しかしこれは、行賀が30年余り唐にいたことから日本語を忘れてしまったからだといわれている。この頃三綱のうちの上座として東大寺の運営にあたり、794年(延暦13年)には比叡山根本中堂供養の職衆をつとめている。晩年には妻帯したことから名声を失ったといわれている。

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  • 明一(みょういつ、神亀5年(728年)- 延暦17年3月27日(798年4月21日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は大宅氏。大和国添上郡大宅郷の出身。 東大寺の慈訓に師事して修学。753年(天平勝宝4年)東大寺盂蘭盆経の講師を、また780年(宝亀11年)には維摩会の講師をつとめた。延暦初年に行賀が唐から帰国した際に、宗議を問い質し行賀の学を痛罵した。しかしこれは、行賀が30年余り唐にいたことから日本語を忘れてしまったからだといわれている。この頃三綱のうちの上座として東大寺の運営にあたり、794年(延暦13年)には比叡山根本中堂供養の職衆をつとめている。晩年には妻帯したことから名声を失ったといわれている。 (ja)
  • 明一(みょういつ、神亀5年(728年)- 延暦17年3月27日(798年4月21日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は大宅氏。大和国添上郡大宅郷の出身。 東大寺の慈訓に師事して修学。753年(天平勝宝4年)東大寺盂蘭盆経の講師を、また780年(宝亀11年)には維摩会の講師をつとめた。延暦初年に行賀が唐から帰国した際に、宗議を問い質し行賀の学を痛罵した。しかしこれは、行賀が30年余り唐にいたことから日本語を忘れてしまったからだといわれている。この頃三綱のうちの上座として東大寺の運営にあたり、794年(延暦13年)には比叡山根本中堂供養の職衆をつとめている。晩年には妻帯したことから名声を失ったといわれている。 (ja)
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  • 明一(みょういつ、神亀5年(728年)- 延暦17年3月27日(798年4月21日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は大宅氏。大和国添上郡大宅郷の出身。 東大寺の慈訓に師事して修学。753年(天平勝宝4年)東大寺盂蘭盆経の講師を、また780年(宝亀11年)には維摩会の講師をつとめた。延暦初年に行賀が唐から帰国した際に、宗議を問い質し行賀の学を痛罵した。しかしこれは、行賀が30年余り唐にいたことから日本語を忘れてしまったからだといわれている。この頃三綱のうちの上座として東大寺の運営にあたり、794年(延暦13年)には比叡山根本中堂供養の職衆をつとめている。晩年には妻帯したことから名声を失ったといわれている。 (ja)
  • 明一(みょういつ、神亀5年(728年)- 延暦17年3月27日(798年4月21日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は大宅氏。大和国添上郡大宅郷の出身。 東大寺の慈訓に師事して修学。753年(天平勝宝4年)東大寺盂蘭盆経の講師を、また780年(宝亀11年)には維摩会の講師をつとめた。延暦初年に行賀が唐から帰国した際に、宗議を問い質し行賀の学を痛罵した。しかしこれは、行賀が30年余り唐にいたことから日本語を忘れてしまったからだといわれている。この頃三綱のうちの上座として東大寺の運営にあたり、794年(延暦13年)には比叡山根本中堂供養の職衆をつとめている。晩年には妻帯したことから名声を失ったといわれている。 (ja)
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