於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日))は、織田信長の娘。六女であり、母はお鍋の方。 三河水野藩主・水野忠胤(徳川家康の母方の従弟にあたる)に嫁ぎ、1男2女(、室、丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。 寛永20年(1643年)に死去した。墓所は大徳寺総見院。

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  • 於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日))は、織田信長の娘。六女であり、母はお鍋の方。 三河水野藩主・水野忠胤(徳川家康の母方の従弟にあたる)に嫁ぎ、1男2女(、室、丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。 寛永20年(1643年)に死去した。墓所は大徳寺総見院。 (ja)
  • 於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日))は、織田信長の娘。六女であり、母はお鍋の方。 三河水野藩主・水野忠胤(徳川家康の母方の従弟にあたる)に嫁ぎ、1男2女(、室、丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。 寛永20年(1643年)に死去した。墓所は大徳寺総見院。 (ja)
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  • 於振(おふり、? - 寛永20年4月9日(1643年5月26日))は、織田信長の娘。六女であり、母はお鍋の方。 三河水野藩主・水野忠胤(徳川家康の母方の従弟にあたる)に嫁ぎ、1男2女(、室、丹羽氏信正室)を儲けた。しかし、慶長14年(1609年)、夫の忠胤は家臣の起こした刃傷事件の責任を家康に糾弾され、切腹を命じられて藩は改易となった。そのため、お振は子供たちを水野家に残し、従兄に当たる佐治一成と再婚した。 寛永20年(1643年)に死去した。墓所は大徳寺総見院。 (ja)
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