Property |
Value |
dbo:abstract
|
- 成瀬 正虎(なるせ まさとら、文禄3年(1594年) - 寛文3年5月9日(1663年6月14日))は、尾張犬山藩の第2代当主。 初代当主・成瀬正成の長男。母は森川氏俊の娘。正室は徳川義直の生母相応院の養女。継室も相応院の養女。子は成瀬正親(長男)、(次男)、娘(正室)、娘(室)。他に養女(成瀬之虎の娘、小出英知室)。官位は隼人正。 慶長13年(1608年)、徳川秀忠の小姓となり、4000石を与えられた。慶長19年の大坂の陣に従軍し、12月に義直に仕えるように命じられた。元和3年(1617年)、義直が名古屋へ入る時に1000石を加増された。 寛永2年(1625年)3月、父の死去により跡を継ぎ、8月に従五位下・隼人正に任じられた。寛永10年(1632年)、光友が徳川家光に御目見した際には付き添いとなり、家光から左文字の刀を拝領した。寛永3年と10年の義直上洛にも付き添って入洛した。犬山成瀬家は、大名クラスの石高を持ちながらもあくまで尾張藩の附家老であり、大名として認められていなかった。 万治2年(1659年)12月27日に隠居し、長男の正親が跡を継いだ。光友は隠居料5000石を与えようとしたが固辞し、この5000石は正親が拝領した。次男の直龍はの養子となっている。寛文3年(1663年)5月9日に70歳で死去した。法号は乾龍院一岳宗無居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄の3丁目にある白林寺。 寛永11年(1634年)、狩りを行った義直に大猪が突進してきたのを、と共に身を挺して防いだ話が伝わる。 (ja)
- 成瀬 正虎(なるせ まさとら、文禄3年(1594年) - 寛文3年5月9日(1663年6月14日))は、尾張犬山藩の第2代当主。 初代当主・成瀬正成の長男。母は森川氏俊の娘。正室は徳川義直の生母相応院の養女。継室も相応院の養女。子は成瀬正親(長男)、(次男)、娘(正室)、娘(室)。他に養女(成瀬之虎の娘、小出英知室)。官位は隼人正。 慶長13年(1608年)、徳川秀忠の小姓となり、4000石を与えられた。慶長19年の大坂の陣に従軍し、12月に義直に仕えるように命じられた。元和3年(1617年)、義直が名古屋へ入る時に1000石を加増された。 寛永2年(1625年)3月、父の死去により跡を継ぎ、8月に従五位下・隼人正に任じられた。寛永10年(1632年)、光友が徳川家光に御目見した際には付き添いとなり、家光から左文字の刀を拝領した。寛永3年と10年の義直上洛にも付き添って入洛した。犬山成瀬家は、大名クラスの石高を持ちながらもあくまで尾張藩の附家老であり、大名として認められていなかった。 万治2年(1659年)12月27日に隠居し、長男の正親が跡を継いだ。光友は隠居料5000石を与えようとしたが固辞し、この5000石は正親が拝領した。次男の直龍はの養子となっている。寛文3年(1663年)5月9日に70歳で死去した。法号は乾龍院一岳宗無居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄の3丁目にある白林寺。 寛永11年(1634年)、狩りを行った義直に大猪が突進してきたのを、と共に身を挺して防いだ話が伝わる。 (ja)
|
dbo:thumbnail
| |
dbo:wikiPageID
| |
dbo:wikiPageLength
|
- 1437 (xsd:nonNegativeInteger)
|
dbo:wikiPageRevisionID
| |
dbo:wikiPageWikiLink
| |
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
| |
dct:subject
| |
rdfs:comment
|
- 成瀬 正虎(なるせ まさとら、文禄3年(1594年) - 寛文3年5月9日(1663年6月14日))は、尾張犬山藩の第2代当主。 初代当主・成瀬正成の長男。母は森川氏俊の娘。正室は徳川義直の生母相応院の養女。継室も相応院の養女。子は成瀬正親(長男)、(次男)、娘(正室)、娘(室)。他に養女(成瀬之虎の娘、小出英知室)。官位は隼人正。 慶長13年(1608年)、徳川秀忠の小姓となり、4000石を与えられた。慶長19年の大坂の陣に従軍し、12月に義直に仕えるように命じられた。元和3年(1617年)、義直が名古屋へ入る時に1000石を加増された。 寛永2年(1625年)3月、父の死去により跡を継ぎ、8月に従五位下・隼人正に任じられた。寛永10年(1632年)、光友が徳川家光に御目見した際には付き添いとなり、家光から左文字の刀を拝領した。寛永3年と10年の義直上洛にも付き添って入洛した。犬山成瀬家は、大名クラスの石高を持ちながらもあくまで尾張藩の附家老であり、大名として認められていなかった。 万治2年(1659年)12月27日に隠居し、長男の正親が跡を継いだ。光友は隠居料5000石を与えようとしたが固辞し、この5000石は正親が拝領した。次男の直龍はの養子となっている。寛文3年(1663年)5月9日に70歳で死去した。法号は乾龍院一岳宗無居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄の3丁目にある白林寺。 (ja)
- 成瀬 正虎(なるせ まさとら、文禄3年(1594年) - 寛文3年5月9日(1663年6月14日))は、尾張犬山藩の第2代当主。 初代当主・成瀬正成の長男。母は森川氏俊の娘。正室は徳川義直の生母相応院の養女。継室も相応院の養女。子は成瀬正親(長男)、(次男)、娘(正室)、娘(室)。他に養女(成瀬之虎の娘、小出英知室)。官位は隼人正。 慶長13年(1608年)、徳川秀忠の小姓となり、4000石を与えられた。慶長19年の大坂の陣に従軍し、12月に義直に仕えるように命じられた。元和3年(1617年)、義直が名古屋へ入る時に1000石を加増された。 寛永2年(1625年)3月、父の死去により跡を継ぎ、8月に従五位下・隼人正に任じられた。寛永10年(1632年)、光友が徳川家光に御目見した際には付き添いとなり、家光から左文字の刀を拝領した。寛永3年と10年の義直上洛にも付き添って入洛した。犬山成瀬家は、大名クラスの石高を持ちながらもあくまで尾張藩の附家老であり、大名として認められていなかった。 万治2年(1659年)12月27日に隠居し、長男の正親が跡を継いだ。光友は隠居料5000石を与えようとしたが固辞し、この5000石は正親が拝領した。次男の直龍はの養子となっている。寛文3年(1663年)5月9日に70歳で死去した。法号は乾龍院一岳宗無居士。墓所は愛知県名古屋市中区栄の3丁目にある白林寺。 (ja)
|
rdfs:label
| |
prov:wasDerivedFrom
| |
foaf:depiction
| |
foaf:isPrimaryTopicOf
| |
is dbo:wikiPageWikiLink
of | |
is prop-ja:兄弟
of | |
is prop-ja:父母
of | |
is prop-ja:開基
of | |
is owl:sameAs
of | |
is foaf:primaryTopic
of | |