徐 鼒(じょ し、Xu Zi、1810年 ‐ 1862年)は、清の歴史家。字は彝舟。号は亦才。 江蘇省江寧府六合県の出身。1825年、挙人となった。1835年に進士となり、翰林院庶吉士となった。1851年に故郷に戻っていたが、1853年に太平天国軍が南京に進攻すると、徐鼒は六合県令のとともに団練数千人を集め、太平天国軍をしばしば破った。1858年、福建省福寧府知府となった。知府として文教を重視し、近聖書院を修築した。 それより以前の1850年から徐鼒は史館に入って南明史の研究を開始していた。当時の人々の著作60余りと、地方志や文人の詩文集を参考にして、1861年に『小腆紀年』を完成させた。翌1862年に在職のまま死去。

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  • 徐 鼒(じょ し、Xu Zi、1810年 ‐ 1862年)は、清の歴史家。字は彝舟。号は亦才。 江蘇省江寧府六合県の出身。1825年、挙人となった。1835年に進士となり、翰林院庶吉士となった。1851年に故郷に戻っていたが、1853年に太平天国軍が南京に進攻すると、徐鼒は六合県令のとともに団練数千人を集め、太平天国軍をしばしば破った。1858年、福建省福寧府知府となった。知府として文教を重視し、近聖書院を修築した。 それより以前の1850年から徐鼒は史館に入って南明史の研究を開始していた。当時の人々の著作60余りと、地方志や文人の詩文集を参考にして、1861年に『小腆紀年』を完成させた。翌1862年に在職のまま死去。 (ja)
  • 徐 鼒(じょ し、Xu Zi、1810年 ‐ 1862年)は、清の歴史家。字は彝舟。号は亦才。 江蘇省江寧府六合県の出身。1825年、挙人となった。1835年に進士となり、翰林院庶吉士となった。1851年に故郷に戻っていたが、1853年に太平天国軍が南京に進攻すると、徐鼒は六合県令のとともに団練数千人を集め、太平天国軍をしばしば破った。1858年、福建省福寧府知府となった。知府として文教を重視し、近聖書院を修築した。 それより以前の1850年から徐鼒は史館に入って南明史の研究を開始していた。当時の人々の著作60余りと、地方志や文人の詩文集を参考にして、1861年に『小腆紀年』を完成させた。翌1862年に在職のまま死去。 (ja)
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  • 徐 鼒(じょ し、Xu Zi、1810年 ‐ 1862年)は、清の歴史家。字は彝舟。号は亦才。 江蘇省江寧府六合県の出身。1825年、挙人となった。1835年に進士となり、翰林院庶吉士となった。1851年に故郷に戻っていたが、1853年に太平天国軍が南京に進攻すると、徐鼒は六合県令のとともに団練数千人を集め、太平天国軍をしばしば破った。1858年、福建省福寧府知府となった。知府として文教を重視し、近聖書院を修築した。 それより以前の1850年から徐鼒は史館に入って南明史の研究を開始していた。当時の人々の著作60余りと、地方志や文人の詩文集を参考にして、1861年に『小腆紀年』を完成させた。翌1862年に在職のまま死去。 (ja)
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