弘農郡(こうのうぐん)は漢代から唐代にかけて河南省に設置された郡。前漢の時代が最も管轄地域が広範である。現在の河南省西部に位置する三門峡市・南陽市西部及び陝西省商洛市を管轄し、長安から洛陽間の黄河南岸に位置し、古代より政治・軍事の要衝とされた。 前漢の前113年(元鼎4年)、武帝により函谷関付近に弘農郡が新設され、郡治が弘農県に置かれた。弘農・盧氏・陝・宜陽・黽池・丹水・新安・商・析・陸渾・上雒の11県が管轄した。『漢書』によれば前漢末に戸数118,911戸、475,954人があった。 王莽のとき、右隊郡(うすいぐん)と改称された。後漢が建てられると、弘農郡の称にもどされた。 後漢のとき、弘農郡は弘農・陝・黽池・新安・宜陽・陸渾・盧氏・湖・華陰の9県を管轄した。 晋のとき、弘農郡は弘農・湖・陝・宜陽・黽池・華陰の6県を管轄した。永嘉の乱によって、弘農郡は五胡の諸国の統治下に入ったが、東晋の末年に劉裕の北伐の成功によって晋の統治下にもどった。 南朝宋の初年に、弘農郡は弘農・陝・宜陽・黽池・盧氏・曲陽の諸県を管轄したが、景平初年に北魏に奪われた。 北魏では、献文帝(拓跋弘)の諱を避けるため、弘農郡は恒農郡と改称された。北魏の恒農郡は陝州に属し、陝中・北陝・崤の3県を管轄した。 東魏の恒農郡は義州に属し、恒農・北陝・崤の3県を管轄した。 北周のとき、弘農郡の称にもどされた。