平和問題談話会(へいわもんだいだんわかい)は、日本の市民団体である。 結成のきっかけとなったのは「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」であり、これに示唆を受けた約50名の学者が『戦争と平和に関する日本の科学者の声明』の発表を経て、49年に東京平和問題談話会および京都平和問題談話会を組織した。さらに1950年1月15日『世界』3月号に『講和問題についての声明』を発表、全面講和を要望し、中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立を主張した。 さらに『世界』12月号に「三たび平和について」を発表した。 会の中心は安倍能成・大内兵衛・仁科芳雄であり、とくに安倍は「オールド・リベラル」と称される大正デモクラシー世代の著名知識人で、初期の『世界』の中心的執筆者となっており、彼らに加え旧・昭和研究会メンバーの蠟山政道・笠信太郎・清水幾太郎も参加している。大内兵衛と清水幾太郎はマルクス主義者である。会の実質的な仕切り役となったのは清水で、丸山は「清水親分」「絶対君主で、常に権力の均衡の上に座をしめている」と述べている。これに関連して竹内洋は、もし仮に昭和研究会の頭目の三木清が弾圧死することなく戦後長く生き延びていたなら、平和問題談話会の代表格の地位を占めていたはずであり、清水幾太郎や丸山真男の出る幕は減った可能性が高いのではないかと推測している。

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  • 平和問題談話会(へいわもんだいだんわかい)は、日本の市民団体である。 結成のきっかけとなったのは「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」であり、これに示唆を受けた約50名の学者が『戦争と平和に関する日本の科学者の声明』の発表を経て、49年に東京平和問題談話会および京都平和問題談話会を組織した。さらに1950年1月15日『世界』3月号に『講和問題についての声明』を発表、全面講和を要望し、中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立を主張した。 さらに『世界』12月号に「三たび平和について」を発表した。 会の中心は安倍能成・大内兵衛・仁科芳雄であり、とくに安倍は「オールド・リベラル」と称される大正デモクラシー世代の著名知識人で、初期の『世界』の中心的執筆者となっており、彼らに加え旧・昭和研究会メンバーの蠟山政道・笠信太郎・清水幾太郎も参加している。大内兵衛と清水幾太郎はマルクス主義者である。会の実質的な仕切り役となったのは清水で、丸山は「清水親分」「絶対君主で、常に権力の均衡の上に座をしめている」と述べている。これに関連して竹内洋は、もし仮に昭和研究会の頭目の三木清が弾圧死することなく戦後長く生き延びていたなら、平和問題談話会の代表格の地位を占めていたはずであり、清水幾太郎や丸山真男の出る幕は減った可能性が高いのではないかと推測している。 (ja)
  • 平和問題談話会(へいわもんだいだんわかい)は、日本の市民団体である。 結成のきっかけとなったのは「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」であり、これに示唆を受けた約50名の学者が『戦争と平和に関する日本の科学者の声明』の発表を経て、49年に東京平和問題談話会および京都平和問題談話会を組織した。さらに1950年1月15日『世界』3月号に『講和問題についての声明』を発表、全面講和を要望し、中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立を主張した。 さらに『世界』12月号に「三たび平和について」を発表した。 会の中心は安倍能成・大内兵衛・仁科芳雄であり、とくに安倍は「オールド・リベラル」と称される大正デモクラシー世代の著名知識人で、初期の『世界』の中心的執筆者となっており、彼らに加え旧・昭和研究会メンバーの蠟山政道・笠信太郎・清水幾太郎も参加している。大内兵衛と清水幾太郎はマルクス主義者である。会の実質的な仕切り役となったのは清水で、丸山は「清水親分」「絶対君主で、常に権力の均衡の上に座をしめている」と述べている。これに関連して竹内洋は、もし仮に昭和研究会の頭目の三木清が弾圧死することなく戦後長く生き延びていたなら、平和問題談話会の代表格の地位を占めていたはずであり、清水幾太郎や丸山真男の出る幕は減った可能性が高いのではないかと推測している。 (ja)
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  • 平和問題談話会(へいわもんだいだんわかい)は、日本の市民団体である。 結成のきっかけとなったのは「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」であり、これに示唆を受けた約50名の学者が『戦争と平和に関する日本の科学者の声明』の発表を経て、49年に東京平和問題談話会および京都平和問題談話会を組織した。さらに1950年1月15日『世界』3月号に『講和問題についての声明』を発表、全面講和を要望し、中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立を主張した。 さらに『世界』12月号に「三たび平和について」を発表した。 会の中心は安倍能成・大内兵衛・仁科芳雄であり、とくに安倍は「オールド・リベラル」と称される大正デモクラシー世代の著名知識人で、初期の『世界』の中心的執筆者となっており、彼らに加え旧・昭和研究会メンバーの蠟山政道・笠信太郎・清水幾太郎も参加している。大内兵衛と清水幾太郎はマルクス主義者である。会の実質的な仕切り役となったのは清水で、丸山は「清水親分」「絶対君主で、常に権力の均衡の上に座をしめている」と述べている。これに関連して竹内洋は、もし仮に昭和研究会の頭目の三木清が弾圧死することなく戦後長く生き延びていたなら、平和問題談話会の代表格の地位を占めていたはずであり、清水幾太郎や丸山真男の出る幕は減った可能性が高いのではないかと推測している。 (ja)
  • 平和問題談話会(へいわもんだいだんわかい)は、日本の市民団体である。 結成のきっかけとなったのは「戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の社会科学者によってなされた声明」であり、これに示唆を受けた約50名の学者が『戦争と平和に関する日本の科学者の声明』の発表を経て、49年に東京平和問題談話会および京都平和問題談話会を組織した。さらに1950年1月15日『世界』3月号に『講和問題についての声明』を発表、全面講和を要望し、中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対・経済的自立を主張した。 さらに『世界』12月号に「三たび平和について」を発表した。 会の中心は安倍能成・大内兵衛・仁科芳雄であり、とくに安倍は「オールド・リベラル」と称される大正デモクラシー世代の著名知識人で、初期の『世界』の中心的執筆者となっており、彼らに加え旧・昭和研究会メンバーの蠟山政道・笠信太郎・清水幾太郎も参加している。大内兵衛と清水幾太郎はマルクス主義者である。会の実質的な仕切り役となったのは清水で、丸山は「清水親分」「絶対君主で、常に権力の均衡の上に座をしめている」と述べている。これに関連して竹内洋は、もし仮に昭和研究会の頭目の三木清が弾圧死することなく戦後長く生き延びていたなら、平和問題談話会の代表格の地位を占めていたはずであり、清水幾太郎や丸山真男の出る幕は減った可能性が高いのではないかと推測している。 (ja)
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