川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は、母は朽木宣綱の娘。妻はの娘。妹に室。子に、(範重の子の養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。

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  • 川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は、母は朽木宣綱の娘。妻はの娘。妹に室。子に、(範重の子の養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。 貞享3年(1686年)7月10日、貿易統制に対する褒章として下総国印旛郡・相馬郡で500石を加増され、計2700石を領する。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下摂津守に叙任し、元禄6年(1693年)12月1日江戸町奉行(北町)となる。元禄11年(1698年)12月1日に職を辞し、旗本寄合席に列した。なお、領地は下総国香取郡阿玉台村、須賀山村、印旛郡吉田村、松虫村、吉高村、青菅村であった。元禄12年(1699年)12月5日に致仕し、宝永元年(1704年)5月8日に75歳で死去。 (ja)
  • 川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は、母は朽木宣綱の娘。妻はの娘。妹に室。子に、(範重の子の養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。 貞享3年(1686年)7月10日、貿易統制に対する褒章として下総国印旛郡・相馬郡で500石を加増され、計2700石を領する。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下摂津守に叙任し、元禄6年(1693年)12月1日江戸町奉行(北町)となる。元禄11年(1698年)12月1日に職を辞し、旗本寄合席に列した。なお、領地は下総国香取郡阿玉台村、須賀山村、印旛郡吉田村、松虫村、吉高村、青菅村であった。元禄12年(1699年)12月5日に致仕し、宝永元年(1704年)5月8日に75歳で死去。 (ja)
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  • 辰千代、伊織、源左衛門(通称) (ja)
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  • 川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は、母は朽木宣綱の娘。妻はの娘。妹に室。子に、(範重の子の養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。 (ja)
  • 川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は、母は朽木宣綱の娘。妻はの娘。妹に室。子に、(範重の子の養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。 (ja)
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