山添 喜三郎(やまぞえきさぶろう、1843年9月15日 - 1923年5月16日)は、明治初期の建設技術者。 現在の新潟県角海浜出身。14歳の頃から船大工をしていたが、26歳で建築大工に転じ、東京のの下で建築を学んだ。明治政府がウィーン万国博覧会(1873年)への参加を決めると、松尾と山添が日本館パビリオンの建築責任者と決まる。山添は9ヶ月半にわたるヨーロッパ滞在を通じて、ヨーロッパの工場建築技術を学んで帰国した。万博博覧会での山添たちの仕事は大変好評を博し、閉会後、イギリスのアレクサンドラ・パーク社 (Alexandra Palace) に頼まれ、ウィーンから日本建築をロンドンに解体移築し、新たに土蔵を建設した。 帰国後は、内務省勧業寮などで活躍し、製紙工場の指導にあたる。1883年に辞職して宮城に移住。1885年から1918年まで宮城県庁に勤めた。この間、旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)、旧登米警察署庁舎(現警察資料館)、宮城紡績会社建屋の設計工事監督を務めた。1917年、寺内正毅の上奏により、宮城県技師と高等官七官に任命される。翌年、宮城県技師を辞職。1932年、81歳で永眠。仙台市の栄明寺に葬られる。 1969年に藤森照信が遺族らを探し当て、卒業論文『山添喜三郎伝』を執筆した。

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  • 山添 喜三郎(やまぞえきさぶろう、1843年9月15日 - 1923年5月16日)は、明治初期の建設技術者。 現在の新潟県角海浜出身。14歳の頃から船大工をしていたが、26歳で建築大工に転じ、東京のの下で建築を学んだ。明治政府がウィーン万国博覧会(1873年)への参加を決めると、松尾と山添が日本館パビリオンの建築責任者と決まる。山添は9ヶ月半にわたるヨーロッパ滞在を通じて、ヨーロッパの工場建築技術を学んで帰国した。万博博覧会での山添たちの仕事は大変好評を博し、閉会後、イギリスのアレクサンドラ・パーク社 (Alexandra Palace) に頼まれ、ウィーンから日本建築をロンドンに解体移築し、新たに土蔵を建設した。 帰国後は、内務省勧業寮などで活躍し、製紙工場の指導にあたる。1883年に辞職して宮城に移住。1885年から1918年まで宮城県庁に勤めた。この間、旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)、旧登米警察署庁舎(現警察資料館)、宮城紡績会社建屋の設計工事監督を務めた。1917年、寺内正毅の上奏により、宮城県技師と高等官七官に任命される。翌年、宮城県技師を辞職。1932年、81歳で永眠。仙台市の栄明寺に葬られる。 1969年に藤森照信が遺族らを探し当て、卒業論文『山添喜三郎伝』を執筆した。 (ja)
  • 山添 喜三郎(やまぞえきさぶろう、1843年9月15日 - 1923年5月16日)は、明治初期の建設技術者。 現在の新潟県角海浜出身。14歳の頃から船大工をしていたが、26歳で建築大工に転じ、東京のの下で建築を学んだ。明治政府がウィーン万国博覧会(1873年)への参加を決めると、松尾と山添が日本館パビリオンの建築責任者と決まる。山添は9ヶ月半にわたるヨーロッパ滞在を通じて、ヨーロッパの工場建築技術を学んで帰国した。万博博覧会での山添たちの仕事は大変好評を博し、閉会後、イギリスのアレクサンドラ・パーク社 (Alexandra Palace) に頼まれ、ウィーンから日本建築をロンドンに解体移築し、新たに土蔵を建設した。 帰国後は、内務省勧業寮などで活躍し、製紙工場の指導にあたる。1883年に辞職して宮城に移住。1885年から1918年まで宮城県庁に勤めた。この間、旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)、旧登米警察署庁舎(現警察資料館)、宮城紡績会社建屋の設計工事監督を務めた。1917年、寺内正毅の上奏により、宮城県技師と高等官七官に任命される。翌年、宮城県技師を辞職。1932年、81歳で永眠。仙台市の栄明寺に葬られる。 1969年に藤森照信が遺族らを探し当て、卒業論文『山添喜三郎伝』を執筆した。 (ja)
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  • 山添 喜三郎(やまぞえきさぶろう、1843年9月15日 - 1923年5月16日)は、明治初期の建設技術者。 現在の新潟県角海浜出身。14歳の頃から船大工をしていたが、26歳で建築大工に転じ、東京のの下で建築を学んだ。明治政府がウィーン万国博覧会(1873年)への参加を決めると、松尾と山添が日本館パビリオンの建築責任者と決まる。山添は9ヶ月半にわたるヨーロッパ滞在を通じて、ヨーロッパの工場建築技術を学んで帰国した。万博博覧会での山添たちの仕事は大変好評を博し、閉会後、イギリスのアレクサンドラ・パーク社 (Alexandra Palace) に頼まれ、ウィーンから日本建築をロンドンに解体移築し、新たに土蔵を建設した。 帰国後は、内務省勧業寮などで活躍し、製紙工場の指導にあたる。1883年に辞職して宮城に移住。1885年から1918年まで宮城県庁に勤めた。この間、旧登米高等尋常小学校(現教育資料館)、旧登米警察署庁舎(現警察資料館)、宮城紡績会社建屋の設計工事監督を務めた。1917年、寺内正毅の上奏により、宮城県技師と高等官七官に任命される。翌年、宮城県技師を辞職。1932年、81歳で永眠。仙台市の栄明寺に葬られる。 1969年に藤森照信が遺族らを探し当て、卒業論文『山添喜三郎伝』を執筆した。 (ja)
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