尾崎 康工(おざきやすよし・おざきこうこう、1701年(元禄14年) - 1779年4月22日(安永8年3月6日))は、明和期(1764年 - 1771年)の代表的俳人。 元禄14年(1701年)に越中国砺波郡戸出村古武屋孫右衛門の三男に生まれ、本家から分かれた後に姓を尾崎をした。屋号は沢村屋、通称伊兵衛。はじめ六壁庵と号し、別号を八椿舎、後に康工と改めた。 初め中川乙由に師事。40歳を過ぎる頃から松尾芭蕉の遺風を慕って全国を行脚した。近江国の義仲寺に長い間芭蕉の墓守として滞在し句碑を残した。 晩年は故郷戸出へ戻り「六壁庵」と呼ばれる庵(現在の太玄寺)を結び、門人の育成に励んだ。

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  • 尾崎 康工(おざきやすよし・おざきこうこう、1701年(元禄14年) - 1779年4月22日(安永8年3月6日))は、明和期(1764年 - 1771年)の代表的俳人。 元禄14年(1701年)に越中国砺波郡戸出村古武屋孫右衛門の三男に生まれ、本家から分かれた後に姓を尾崎をした。屋号は沢村屋、通称伊兵衛。はじめ六壁庵と号し、別号を八椿舎、後に康工と改めた。 初め中川乙由に師事。40歳を過ぎる頃から松尾芭蕉の遺風を慕って全国を行脚した。近江国の義仲寺に長い間芭蕉の墓守として滞在し句碑を残した。 晩年は故郷戸出へ戻り「六壁庵」と呼ばれる庵(現在の太玄寺)を結び、門人の育成に励んだ。 (ja)
  • 尾崎 康工(おざきやすよし・おざきこうこう、1701年(元禄14年) - 1779年4月22日(安永8年3月6日))は、明和期(1764年 - 1771年)の代表的俳人。 元禄14年(1701年)に越中国砺波郡戸出村古武屋孫右衛門の三男に生まれ、本家から分かれた後に姓を尾崎をした。屋号は沢村屋、通称伊兵衛。はじめ六壁庵と号し、別号を八椿舎、後に康工と改めた。 初め中川乙由に師事。40歳を過ぎる頃から松尾芭蕉の遺風を慕って全国を行脚した。近江国の義仲寺に長い間芭蕉の墓守として滞在し句碑を残した。 晩年は故郷戸出へ戻り「六壁庵」と呼ばれる庵(現在の太玄寺)を結び、門人の育成に励んだ。 (ja)
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  • 尾崎 康工(おざきやすよし・おざきこうこう、1701年(元禄14年) - 1779年4月22日(安永8年3月6日))は、明和期(1764年 - 1771年)の代表的俳人。 元禄14年(1701年)に越中国砺波郡戸出村古武屋孫右衛門の三男に生まれ、本家から分かれた後に姓を尾崎をした。屋号は沢村屋、通称伊兵衛。はじめ六壁庵と号し、別号を八椿舎、後に康工と改めた。 初め中川乙由に師事。40歳を過ぎる頃から松尾芭蕉の遺風を慕って全国を行脚した。近江国の義仲寺に長い間芭蕉の墓守として滞在し句碑を残した。 晩年は故郷戸出へ戻り「六壁庵」と呼ばれる庵(現在の太玄寺)を結び、門人の育成に励んだ。 (ja)
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  • 尾崎康工 (ja)
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